きっかけはひとつの和歌だった。
憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ中学校の頃、山上憶良が詠んだこの和歌に、「どんだけなの憶良!」と沸き立った私と友人。
しばらくは語尾に「らむ」をつけるが流行り、
今でも私と友人の間では、「らむ」は活かされているし、なぜか今でもこの歌だけは覚えている。
この歌は、内容も強烈だった。
恋だの景色だの故郷だの、ステキ!な歌が厳選されて掲載されている中、
宴は続いておりますが、私たちは家で子どもが泣いているでしょうし、妻も待っていますので、もうおうちに帰ります。っていうだけの歌だったから(当時の解釈で)。
けれど、改めて調べてみると、この歌がなぜ山上憶良の代表歌か、わかったような気がした。
この歌を詠んだ当時、憶良は会社で言うと「部長」的な立場だったらしい。
宴は、誰かが転勤してきた歓迎会。
でも、何でか部長以下の社員、みんな帰りたくなっちゃったようで。
「それなら」と、代表して憶良が歌を詠んだわけです。きっと、たぶん。
4次会くらいに行く道中です。きっと、たぶん。
すいません。私たち、今日ここでドロンします。うちの部下は若いのが多いもんで、家で子どもが泣いているんですよ。
かわいそうじゃないですか、ねえ?
かみさんも待ってるでしょうしね。こんな時間に帰ったら、怒られちゃうかも知れませんけど。
あははは。では、また明日!失礼します!部下たちは、「さすが部長!これで僕たちも帰りやすくなったぞ!」と、なったかもしれません。
・・・たぶんね。
しかし後日、憶良は、上司の妻が亡くなったときに素敵な歌を詠んでいます。
妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに妻は、毎年咲く楝(あふち)の花を楽しみにしていました。それが散ってしまった今でも、私の涙は乾くことがありません。憶良さん、すごくいい人だったんですね。
いろいろ調べていたら面白くて、ミーハー歴女の血が騒いだ。
和歌って面白いなぁ。