9月28日昼
癌で闘病中の曾祖母が危篤だという連絡が入った。
「すぐにどうということもないだろう」ということだったので
私は仕事を終わるのを待って、
着の身着のまま20時の汽車に乗る。
デッキで弟に連絡を入れた。
弟は、泣きじゃくっていて、何を言っているのかさっぱりわからなかった。
私は、そのまま2時間、号泣し続けた。
駅に迎えに来ていた大叔父に、曾祖母の死を知らされた。
亡くなったのは、20時5分だった。
病院の面会時間が終わり、多くの見舞い客が帰った直後。
家族だけになってほっとしたのか、静かに呼吸を止めたらしい。
20時。
家に着くともうたくさんの人たちがいて、
私の顔を見た弟が、また号泣した。
ふたりでしばらく泣いた。
祖母の遺体を、見たくも触りたくも無かった。
まだ少し血色がよくて、ただ寝ているだけに思えた。
次の日に急遽通夜をやることになり、父は朝まで葬儀の準備に追われた。
経歴紹介の原稿をまとめながら、
曾祖母に昔の話をもっと聞いておくべきだったと、みんなが口々に言う。
私たち家族は、1ヶ月前に曾祖母が入院した時から覚悟はできているつもりだった。
癌という病気は厄介で、調子が良かったり悪かったりする。
余命申告なんか当てにならなくて、
全身に癌が広がっていた曾祖母にも、つい先日、外泊許可が出ていた。
祖母がそれを聞き、部屋を掃除した途端に、
またご飯が食べられなくなって、点滴で腕を腫らす生活になった。
私が最後に曾祖母に会ったのは、9月21日。
体調は悪いみたいだったけど、ニコニコと手を振って出迎えてくれた。
曾祖母は、札幌に戻る私に「気をつけて」と言った。
「また10月に来るからね」と私は言ったと思う。
結局、一睡も出来なかった通夜の日。
次の日には、町内に連絡が行き、たくさんの人が弔問に訪れた。
みんなは「急すぎる」と言う。
94歳の死には、似つかわしくない言葉かもしれないけれど、
入院するまで旅行に行って、デイサービスに行って、
晴れた日は草とりをしていた、元気な曾祖母の死は確かに「急」だった。
曾祖母は、弱さを見せるのが嫌いで
頑固で気が強く、とんでもなく人にやさしかった。
家族以外の見舞い客には、元気な姿しか見せなかった。
「もうすぐ家に帰れる」とまで言っていたらしい。
亡くなる直前までオムツを嫌がったらしい。
その性格のせいで、末期癌なんかになってしまったんだと思う。
30代で、12才から1才の子どもを3人抱えて母子家庭。
しかも貧乏農家。
優良母子家庭とやらで表彰もされている。
弱音を溢す暇や余裕などなかったのだろう。
納棺の時。
私はやっと、曾祖母が本当に亡くなったことを実感した。
どこを触っても冷たい身体を、ゆっくりと拭いた。
真っ白な肌だったけど、膝には大きく茶色の痣があって、
一緒に座りながら草とりをしていた曾祖母の妹が、撫でながら泣いていた。
私は花札の光物を選んで、手に持たせてやろうと思った。
曾祖母のいちばん好きだった絵柄をみんなで選んで。
組んだ手にしっかりと収まったので、ちょっと笑えた。
棺に被せられたのは、あのギンギラギンのやつじゃなくてピンクの可愛らしい布。
遺影は3年前の家族写真から。すごく良い笑顔だった。
通夜も終わり、宴会を抜け出して
葬儀で弟が読む弔辞をまとめるために家へ帰った。
また泣きながら書いたという弟のメモは、子どもみたいに小さな思い出が綴られていた。
ライターとして、弔辞を書くなんて滅多にないことだと思うけど、できれば一生やりたくない。
そんなことを思いながら、また私は泣いた。
葬儀というのが久しぶりだったけど、すごくあっけなかったように思う。
ついに祖母の遺体は焼かれて、骨だけになった。
太くてたくましい骨だった。
普通は骨以外はキレイに燃え尽きるのだけど、
頭蓋骨に少しだけ、黒く焼けた脳がこびりついていて、
どれだけ頑固頭なんだと、みんなが笑った。
確かに、頑固だった面はあるけど、私や弟にとってはひたすら優しい人だった。
最後まで私のことを気にかけてくれたのに、何も返せなかったことはすごく後悔している。
これから、曾祖母と同じように、一生懸命生きていきたい。
私は3年前に、曾祖母が幸せだったであろう頃のお話を書いた。
きっと今ごろ曾祖母は、
愛する夫と60年ぶりの再会に向けて、わくわくしながら歩いているのだろう。
94歳の曾祖母を見て、曽祖父は何て言うのだろうか。
「久しぶり。今までおつかれさま」って言ってあげてほしいな。
短編妄想作文
「彩丘に待つ」