les spacey espacent日本人がカキモノ公開中

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2013.03.06 Wednesday ... - / -
#「生まれるまえに、生きていた」 act.002
「生まれるまえに、生きていた」 act.002

「庄屋の娘」 20代前半 女子


鏡台の前でくるくる回る女は、ずっと欲しかった着物を姉からもらった八重。
それを格子の外から覗く男は、栄三郎。
ふたりして齢16。
栄三郎は八重のことが大好きでたまらなかった。
正確に言うと、八重のおっぱいが。

八重は、何期にもわたる庄屋で3人姉妹の真ん中に生まれた。
父は姉に入り婿を見つけるのに日々必死。
ちなみに姉は蛙のような顔をしていた。
まだ4歳の妹は父に溺愛され、八重は家族の中で一番気楽な存在であった。

器量が良くて人懐っこく、爆乳をぶらさげた八重は、村中の思春期男子の憧れ。

その中で、最も八重に近い存在は幼馴染の栄三郎。
ふたりは13になった頃から、人の目を盗んでは乳繰り合っていた。
貧しい草鞋屋に生まれた栄三郎にとって、それが何よりのステイタスだった。

「お八重ちゃん」
八重が格子の向こうからの声に気付き、栄三郎に駆け寄った。
「栄ちゃん、どうしたの」
「あたらしい着物、買ってもらったんだね」
「ううん。おねえちゃんのもらったの」
栄三郎はどうしても八重の胸元に目が行くのだった。
「おねえちゃんと違ってあたし痩せてないから、あんまり似合わないの」
それは爆乳だからだよ。栄三郎はその言葉を慌てて飲み込んだ。
「お八重ちゃん…今日も川んとこ、行かない?」
八重は黙りこくった。
「もう乳以上は触らんから!」
「声が大きいわ!栄ちゃん!お父さんに聞こえちゃう!」

最近、八重と栄三郎はそんな掛け合いを繰り返していた。
結局は八重はいつも、栄三郎の誘いに乗ってしまうのだが。

川を目指してふたりで歩く。
微妙な距離感を保ってはいるが、栄三郎にとってはこの瞬間がたまらない。
男たちがふたりを見て、こそこそ話しているのが見えた。
お八重ちゃんは俺のもの♪
栄三郎はニヤつきが止まらなかった。

その時、八重がふと足を止め、木の陰に隠れた。
前から歩いてくるのは栄三郎の兄、清次郎。
その端整な顔立ちは、歌舞伎の旅一座にスカウトされたこともあるほど。

「おお栄三郎、遊びに行くのか?」
「うん、お八重ちゃんと川に。あれ?お八重ちゃん?」
お八重は木陰から顔だけを出して清次郎を見ている。
心なしか、頬が赤らんでいた。
「こんにちは…清次郎さん」
「こんにちは、お八重ちゃん。今日も可愛いね」
お八重の頭の中で、清次郎の発した「可愛いね」が一瞬のうちに「結婚してください」になっていた。
「はい!」

清次郎は八重のとんちんかんな返事に貴公子の笑みを浮かべて去った。
気が気じゃないのは栄三郎。
八重の清次郎への想いに気付いてはいた。
ただ、この世で一番信じたくないことだった。

「栄ちゃん、今日あたし川にはいけない」
「…何で?」
「…どうしても、いけない」

八重は清次郎の去った方へ、ゆっくりと歩いていく。
「待って!お八重ちゃん!」
栄三郎は八重の肩を掴んだ。
はっと目覚めたような顔の八重。

「兄ちゃんのことが好きなの…?」
八重は、こくりと頷いた。
「俺は、お八重ちゃんのことが好きなのに?」
黙ったまま、八重は栄三郎の瞳を見つめていた。とても真っ直ぐに。

「栄ちゃんは…あたしのお乳が好きなだけよ」

そう呟いて、八重は小走りでその場を去った。
八重の言葉が図星すぎた栄三郎は、力なく地面に座り込み、小さくなっていく八重の後姿を見送った。
2007.08.29 Wednesday ... comments(0) / trackbacks(0)
#奇跡の可愛さ
2007.08.29 Wednesday ... comments(0) / trackbacks(0)
#筋肉マンになってみた

2007.08.29 Wednesday ... comments(0) / trackbacks(0)
#感想あしあと募集中
感想や通りすがりの挨拶。
まとめてこちらにお願いします。
2007.08.29 Wednesday ... comments(4) / trackbacks(0)
#こどもが5にんいます
スポーツ感想文「こどもが5にんいます」(2006年)


川相昌弘、42歳。
中日ドラゴンズ所属。
現在、通算533個の犠打世界記録を持つ、言わずと知れた「バント職人」である。

そのバント成功率は95%超というファンタジスタ。
バントをやってみたことがない人は、一度でいいからやってみて欲しい。
かつてソフトボール部で4番だった筆者も、バントは出来なさ過ぎて練習を怠けまくった覚えがある。

特にプロ野球では、球種も多く練習時間も少ないため、バントのサインが出るのは稀。
それでも黙々と犠打を成功し続け、「川相と言えばバント」という金字塔を打ち立てた男。
野球の「投げて打って走って獲る」の流れにおいて、一番クリエイティブに没頭した男。
超カッコいいじゃないですか。侍ですよ。
それで以って、若干「よりによって何でバントで笑」な感じじゃないですか。
そんな川相が犠打世界記録を樹立した途端、巨人をクビになり、中日にテスト入団したのが3年前。
選手のメンタルアドバイザーとかいう変なポジションを与えられながらも、コツコツと普通にヒットとか打ちつつ、バントの世界記録は更新し続けていた。
そして、この日本シリーズを最後に、引退。
スポーツ番組の川相特集を見て、思わず傘をバットに見立てバントをしてしまった経験を持つあたしとしては、感慨深い限りである。

そんな川相がナゴヤドームにて、引退セレモニーで宙に舞っていたちょうどその頃。
地球の裏側で世界を揺るがす大スキャンダルが勃発していた。

ロマン・アルカディエビッチ・アブラモビッチ(そんな素敵名前だったのか!)が離婚の危機に直面していた。

アブラモビッチのことを軽く説明しておく。
ロシア出身の、石油王。40歳。
とにかく金持ち。
バカみたいに金持ち。
彼が有名になったのは、イングランドのチェルシーというサッカーチームを買収したこと。
チームの負債をドドンと返済し、有名選手を金の赴くままにドドンドドンと獲得し、チームを強くしていった。
そんな、まぁ、とにかく金持ち。

この度、彼の不倫が妻のイリナさんにバレた模様。
不倫相手は、前々から噂のあった若い美人モデル。
ちなみに相手の名前は和表記の差があって、スコワとかズコバとか言われてるけど、ズコバの方が卑猥チックで面白いのでズコバさんで。

とにかく、こんだけ金を持ってたら不倫なんて当たり前のように感じるが。

しかし今回、ズコバさんとのバカンスがスクープされたことで、妻イリナさんも堪忍袋の緒が切れた。
速攻で弁護士を雇い、離婚調停の準備を始めた。

「慰謝料に1兆円いただくわ!」

ちょっと、非現実すぎて笑っちゃった。
1兆円って。小学生の冗談でしょ?

でも、持ってるからそんなこと言われたわけで。
実額は、総資産の半分の1兆2千億円の要求だって言うんだから。総資産が2兆5千億円ってことでしょ。
なにこれ。桃鉄ひとりでやってる途中みたいな。

あたしもさすがに、シェフチェンコのお給金は払っていけるの?とか、ブッフォン獲るって話はどうなんの?とか要らぬ心配しちゃったんだけど。

女は本当に怖いです。
いや、男がバカなのか。環境ホルモンのせいなのか。
金持ちがバカなのか。

川相とアブラモビッチ。

共通項は、「子供が5人もいる」ということだけでお送りしました。
2007.08.29 Wednesday ... comments(0) / trackbacks(1)
#「生まれるまえに、生きていた」 act.001
「生まれるまえに、生きていた」 act.001(2007年)

「アルプスに咲く花」 20代前半 女子

私は花。
幼少期の記憶はない。いつのまにか、この薄紫の花びらを湛えていた。
自分の姿を見たことはないけれど、まわりのみんながそうなんだからそうなんだろう。
目の前には、草原の丘が幾重にも連なっていて、それを切立った岩のような高い山が囲んでいる風景。
時に、それは鮮明でまぶしかったり、ぼやけて哀しそうだったりする。
私は自分で身体を動かせない。
なぜか意識を持ち始めてから程なくして、自分も目の前に広がる景色の一部だと知った。
「ゼラニウムがたくさん咲いているわ。すてき!」
いつもバカみたいに裸足で駆け回っている、寝癖が印象的な女の子の言葉だった。
ゼラニウム。
たぶん、そうなんだろう。
私のプロフィールは、ゼラニウムという花。それだけ。
そしてきっと、そんなに長い命ではない。花だし。

女の子の住む山小屋には、白いひげのおじいさんとでかい犬、そして山羊も暮らしているようだ。
時々、たくさんの山羊を引き連れた少年がやってくるから、気が気じゃない。
私は、いつ誰に踏まれて命を落とすか知れない。
どうせなら朽ち果てるまで天寿を全うしたいと、こっそり思っているのに。

一度、でかい犬が私に接近してきたことがあった。
私の方を見つめ、ゆっくりと忍び寄ってきて、私の首もとめがけて口を大きく開いたのだ。
死ぬ直前には、走馬灯のように思い出が駆け巡ると言うけれど、
そういえば駆け巡るような思い出もそんなにあるわけないのだった。
所詮、私は花だから。

犬の牙は私の首もとをかすめ、足下のカタツムリを捕えた。
私はドクドクと波打つ葉脈を感じながら、走馬灯の代わりに古い記憶が過ぎったのを認めた。
きっと、ここではないどこかで、私が生きていた頃の記憶。

視界を遮るほどに、薄桃色の仲間たちが咲き誇る。
それはどことなく、今の私たち「ゼラニウム」のかたちに似ていた。
大きくてたくましい木の上に私は生きていた。
仲間たちの花びらが落ちて、静かな水面を埋め尽くす。
私も、自分の欠片が痛みもなく落ちていくのを感じていた。
身体がの一部が捥がれているというのに、なんて美しい光景なんだろう。
花びらをすべて失った私は、堅く醜い芽になって、途方もない数の夜を越える。
また美しい光景に出会える日まで、じっと。

犬はバリバリと音を立ててカタツムリの味を堪能していた。
その横で何かを私が悟ろうとしているなんて思いもしないだろう。

命の終わりに怯える今日と、一瞬のために生き続ける昔と。
どちらもそれなりに幸せで、不幸な気がしている。
あの女の子のように脚を持って生まれて走り回れるとしても、
やっぱり幸せで、不幸なんだろうか。
2007.08.29 Wednesday ... comments(0) / trackbacks(0)
#「彩丘に待つ」解説
「彩丘に待つ」解説


舞台は美しい丘陵地帯。
本当に美しいと景色だと思う。
夏。ジャガイモの花の白色と、菜の花の黄色が混じった丘の景色は、
絵の具でも写真でも、言葉でも上手く伝えられない。
それくらい、私はあの景色が美しいと思う。

かつて100以上の世帯が農業を営んでいたこの町も、今では農家は十数件。
私は、そんな究極にシンプルな町で生まれ育った。

今も実家には四世代が同居し、農家を営んでいる。
一家の長であった「愛實(なるみ)」という名の曽祖父は、私が生まれるずっと昔に他界していた。
どんな人だったのかは、今まで聞いたことも無かった。
ただずっと仏壇の上から見下ろす、若い男性の肖像画。
それが曽祖父ということだけ知っていた。

今年、町の開基100周年記念誌に曾祖母が寄稿することになった。
ただ、94歳の曾祖母は長い文章を書くなんてやったことが無い。
そこで、長い正月休みで帰省していた私が話を聞き、文章に起すことになった。
 
曾祖母は身体も元気だが、脳も元気である。
こっちが驚くほどに、年月と出来事をキレイに並べて昔のことを語りだした。
 
大正5年、関西地方からの入植者の家に長女として生まれる。実家はこの町から4里ほどの隣町。
昭和12年、この町に嫁いでくる。翌年、分家して夫・愛實と二人暮しに。それから、長女(私の祖母)が生まれ、その後、三女一男に恵まれる。
昭和18年、夫が教育召集で出征。3ヵ月の兵役後、無事に帰宅する。
昭和25年、結核で夫が死去。親戚に奉公人を頼み、農業を営みながら生活する。
昭和34年、奉公に来ていた夫の甥(祖父)と長女(祖母)が結婚。まもなく、子供が生まれる(父)。

昭和58年に、ひ孫にあたる私が生まれた。
家族が仕事に出ている間、曾祖母はまだ赤ちゃんだった私の子守り役だった。
曾祖母の妹家族と共同農場を営んでいるので、私の幼馴染にあたる3人の面倒も見ていたらしい。
その少し後から、私の記憶が始まる。すでに曾祖母は老人だった。

話を聞いて、素直に偉大だと思った。
想像もつかない哀しみや貧しさに身を委ねて生きてきている。
それを誰にもひけらかすことなく、ただ毎日を生きていることが素晴らしい。

そして、寄稿文章には直接関係しないが、私が一番聞きたかったのは、曽祖父のことだ。
曾祖母は、再び話し始めた。

農業の傍ら、今の大学に値する学校を卒業していた曽祖父は、物書きが好きだったらしい。
毎晩机の前で正座し、子供が寄って行くと怒鳴り散らすほど熱心に日記をつけていた。
性格はくそ真面目で、無口だったという。
でもちょっと少年のような悪戯をすることがあった。
悪戯好きな祖父や祖父の兄弟を見てきた私には、その光景だけがイメージできた。

教育召集は3ヵ月限定の徴兵だが、終戦直前のその頃はそのまま戦地へ行かされた者が多かったと聞いた。
当時の町内でも、戦死者が思った以上に多かったことを聞き驚いた。
曽祖父が3ヵ月で帰ってこれた理由は、はっきりわからないらしい。
ただ、肖像画でメガネをかけていることから、視力が極端に悪かったのだと推測した。

「帰ってきたのがちょうど稲刈りの時期だったから助かった」

曾祖母は、何回もそう言った。


私が今、こんな風に曾祖母の話を聞き、こんな短編小説を書いたのには、見えない理由があるのだろうと思う。

生まれて、自分で作ったものを食べて生き、子孫を残して、死んでゆくというシンプルな人生。

家を出て行くときに曾祖母が言った「いつでも戻ってきなさい」という言葉を思い出す。

今になって思う。家族と離れ離れになるのは誰だって哀しいということ。
きっと、私にとってはいつまでも忘れられない言葉だと思う。

世に出ることは決してないであろう、曾祖母や周りの人たちの人生。
当時の当たり前な生き方は、私には美しくて逞しくて、とても敵わないように映る。
どうしてもそんな風にしか考えられない私は、消えていくよりも残したいと心から思ったのだ。

そして、無口で若く死んでいった曽祖父。
私の文章を書く趣味は、曽祖父の悪戯なプレゼントだったりして。

そんな、ちょっと素敵なことを考えている。
2007.08.29 Wednesday ... comments(0) / trackbacks(0)
#彩丘に待つ
短編妄想作文

「彩丘に待つ」2006年


 丘の色は変わる。
 ここには春がきて、暑い夏がきて、秋がきて、長い冬がくるから仕方ない。
 この丘の彩りをまじまじと見つめたのは初めてではないだろうか。
 人が息を潜めるような冬はただ真っ白な丘が、夏はなんてつぎはぎだらけで滑稽なものなのだろう。
 つぎはぎの中で、蟻のような人影が点々とうごめいている。きっと、畑に出ている時は私もこんな風に見えるのだろう。
 ガタガタと音を立てる馬車に乗りながら、マサは思った。この町に嫁いできてからというもの、景色を観て思いに耽る余裕なんてなかったような気がする。
「夏の真っ只中に餅つくっつうのも、なんだかね」
 隣家に住むサダはいつもと変わらぬ明るい声を出して、風呂敷包みを豪快に叩いた。中にはまだ温かい餅と、炒った大豆がたくさん入っている。
「三ヶ月で帰ってくるっちゅうのに、大げさなんでねえの」 
「でもそのまま本隊に取られることもあるちゅう話だし」
 一番弱気なのは、サダの妹のカツエだ。カツエは結婚して日が浅く、若かった。そんな時に夫が急に居なくなる事に居た堪れなくなるのも当然だろう。
 三人は、教育召集で旭川へ行った夫に面会に行くのである。
 教育召集は三ヶ月で戻って来れるとは聞いているが、同じ部落の中から先に召集された者が、そのまま帰ってこないという例もあった。
 マサの夫である優実の元に、教育召集の白い紙が届いたのが一カ月前。優実と、サダの夫、カツエの夫の三人は、部落から一里離れた「万歳峠」で町の皆に見送られ、同じ日に旅立った。
 夏の暑い日だった。三人は、あの日と同じ着物で正装していた。
 いつからか万歳峠と呼ばれるようになった峠は、皮肉にも町の丘全体を見渡せる唯一の場所だ。

「まだ分家して二ヶ月しかたっとらんのに、あんまりだ」
 馬車の上で、何度もカツエがそう呟く。マサは、自分が分家した頃のことを思い返していた。
 結婚して半年で大家族から分家した。思えば実家も大家族で、誰かは必ず傍に居たのだった。それが、ごく無口な優実と広い平屋で急に二人きりになって、マサは淋しくて仕方なかった。
 二人きりの畑仕事も、優実は無駄口をきかず黙々とこなした。優実は夜に実家に戻って兄弟たちと過ごすことが多く、独り家に残されたマサは眠れずに縫い物などをして夜を過ごした。
 子供が生まれてからは優実はわりと家に居るようになったが、家族団欒もそこそこにランプの乏しい灯りで長い時間をかけて日記をつけているような塩梅だった。
「淋しいわな。カツエのとこのは、気のいい男だもの。うちのなんかはもーう酒飲みで。あんなんに兵隊なんか勤まると思えん」
 サダはいつも以上に明るく、カツエを慰めているように見えた。カツエの頬が緩むのが分かって、マサは安心した。
「マサさんとこのは、賢くて堅い人だべ。きっと真面目にやりよるよ」
 マサは頷いて、日記はまだつけているだろうか、とふと思った。何となく優実の机には近づかないようにしていて、日記帳を持っていったのかも分からないのだった。

 日差しが傾きかけて来た頃、駅のある町が見えてきた。
 
「すごい人だわぁ」
 サダが一際大きな声で笑いながら言った。
「やっぱり今日中には汽車乗れねえかもな」
 駅は人でごった返していた。ほとんどが兵役に向かう者、その見送りの家族だろう。
 マサたちは、悲壮な顔になりそうなのを堪えた。所々から聞こえる「万歳」の声の裏に、みんな同じ所在無い気持ちを隠してることを悟っていた。
 マサは今朝、子供たちを優実の実家に預けに行った。正装している母親の姿に不安げな表情を見せる七歳の長女に、マサは目線の高さを合わせて気丈に言った。
「そんな顔したらいかん」
 同じ言葉を、自分にも言い聞かせたつもりだった。
 結局、三人は駅で一夜を明かすことになった。持ってきた薄い麻布を尻に敷き、座ったまま三人で寄り添い、浅い眠りに就いた。
 まだ二十歳のカツエは、子供みたいにサダの手を強く握り締めていた。
 
 次の朝、すし詰め状態の汽車にやっと乗ることが出来た三人は、軍地のある旭川へ到着した。
「カツエ、おもしろい顔になっとるよ」 
 サダが笑う。カツエだけではない。みんなすすだらけになり、湿らせた手ぬぐいで顔と手を拭った。
「お、みんな歩って行きよる」
 大きな橋のある方向に、人の列が続いていた。マサは餅を背負い直した。長年農作業をやってきたから、足腰には自信があった。
 橋を渡る。汽車を降りてからも聴こえた「万歳」の歓声は、橋を過ぎた途端に聞こえなくなり、その代わりに物騒な音が響いていた。初めて耳にする機械音だ。
「奥さんたち諦めなさい。私は会えなかったよ」
 引き返す人の中から、何度もこんな遣り取りが聞こえ、三人は顔を見合わせた。
「どうする?」
「ここまで来たんだ。行ってみるべ。どっちみち右も左もわからん」
 サダの意気込みに押され、三人は軍の敷地内に入って行った。
 気高く建つ白い建物を前に、人が溢れていた。そこらを通りかかる軍人と押し問答を繰り広げる者たちの喧騒に、三人は圧倒された。「ああやってれば会えるかも知れんね」
 サダは早速、あたりを真似して適当な軍人を捜しに行った。
 マサとカツエも後に続いた。
「陣野優実っつう名前の者と会えませんか」
 マサは会えることを信じた。
 何人もの軍人に同じように尋ねて回った。もしかしたら同じ人に何回も聞いているかもしれない。完全に喧騒に溶け込んでいた。
 鬱陶しそうにあしらう軍人が殆どで、マサはそれでも諦めなかった。いや、マサよりも鬼気迫る物言いの者のほうが、圧倒的に周りに多いのだ。
「申し訳ありませんが、今は会えないと思いますよ」
 ある若い軍人が、申し訳なさそうに言った。
 その物言いがあまりに穏やかで、マサは急に気が抜けた。
「ええ、すいません。これ、よければ皆さんでお分け下さい」
 マサはその青年に、背負っていた風呂敷包みを手渡した。
 そのまま青年の顔を見ずに、マサは喧騒から抜け出した。
 サダもカツエも、落胆して戻ってきた。
「だめだわ。マサさんもか?」
「うん。餅と豆はそこらの兵隊さんにやってきた」
「わちらもそうするべ。したら、行き渡るかも知れね」
 橋へと引き返す者たちは、皆同じ思いを抱えて妙に静かだった。空から聞こえる物騒な音が耳障りだった。マサは初めて「戦争」が身に纏わりついたような感覚だった。
 平和な部落ん中で、丘登って畑耕して、馬の世話して、なんも昔と変わらん。物が配給になってそれがどんどん減ってっても、昔と同じに毎日畑耕すもんだから、戦争がどんなおっかないことか、はっきり分からんかった。けど、あの人はいま、あの音の中に四六時中居てどんなに怖いだろう。
 甘たるい思い出はもう思い出せんし、これからも期待はせん。ただ黙々と畑を耕すあの人の背中がいつも目にはいるっちゅう普通の日々がまた戻って来たらいい。
 帰りの汽車の中、さすがのサダも口数が減っていた。
「うちのにはもう会えない気がすんね…」
 サダの寂しそうな呟きだったが、周りの同じような空気のせいか、それほど痛々しくはならずに溶けていった。
 
 丘で子供たちが駆け回っている。
 マサは、その声を遠くに聞きながら、馬の餌となる燕麦を見繕っていた。
 コオロギの鳴声がちらほら聞こえ始め、背の低い稲穂を傾いた陽が照らしていた。
 マサは陽でチカチカした目を、ふと丘の上から伸びる道に向けた。
 万歳峠で見送った時と同じ、背広姿の優実が歩いてくる。
 幻かと、一瞬思った。
「お父ちゃん!」
 長女が駆け寄る。
 優実は、あまり見せない笑みを浮かべた。
「おかえりなさい。…帰ってきたんやね」
「ああ。目が悪うて。本隊には行けん」
 夜な夜な日記も書くもんだわ、とマサは少し可笑しくなった。
「稲刈りどうしようかと思ってたんよ」
 優実は、黄色く色付いた田んぼの方に目をやり、複雑な表情を浮かべた。
「みんな本隊に…。サダさんたちとこも稲刈ってやらんといけん」
 マサはサダの帰りの汽車での言葉、カツエの不安げな顔を思い出し、胸が痛くなった。
「サダさん、よう勘が働いたもんだなぁ」
「兵隊つうもんは、仕方ねえことばかりだ」
 優実の表情に、明らかな負い目の気が見て取れた。
 マサはそれを察して、明るい声で言った。
「あんたいっぱい働かんといかんね。みんなのぶん。みんな帰ってくるまで」
 あんたはなんも喋らんで畑に腰落としてる姿がいちばん似合っとる。
 それは口に出してないが、マサにはちゃんと優実に伝わった気がした。







解説は こちら
2007.08.28 Tuesday ... comments(0) / trackbacks(0)
#掻きたい背中
オマージュ妄想作文

「掻きたい背中」2002年
 


     オープニング

なにか、内臓から皮膚からむず痒いのは、始まりを焦る夏のせいでもないし誰のせいでもないし。
でもとにかく今日も一日を無事に塗り潰せたと、私は帰路を急いで自転車を漕ぐ。
額に汗が滲んでは、乾いた空気の中に溶けていった。
その光の粒のかたちを想像したりする。
そうゆうことを感じ取る自分の感性を自画自賛していれば、私は塗り潰す日々の中でいつまでも穏やかな心を保てていた。
畑や田んぼに囲まれたこの通学路は、あまりに無機質で真っ直ぐで、私を放っておいてくれている。
自転車のスピードを上げる。
鬱陶しい制服のスカートでさえ、風にはためいていれば画的に許せた。
直線道路の終わりのT字路の先は、小さな川になっていて、私のお気に入りだった。
あたしは時々土手に腰掛けて、夕日が沈むのを眺めたりしている。
青空はやけにポジティブで厚かましく思えて、逆に夕空は淡々としていて好きだった。
今日も夕空のエナジーに陶酔するつもりだ。

いつもは無いはずの、自転車が見える。
オレンジ色に撹乱した目で、私のその場所に人が居るのを見た。

坊主頭に制服、傍らにはでかいエナメル鞄。遠目に見ても、同じクラスの坂下くんだとわかった。

坂下くんは、夕暮れの橙に溶けていくようだった。水の緩やかな煌めき、若い色した雑草の茂りと一緒くたになったような日に焼けた肌。
その風景との調和に、見惚れないわけがなかった。ひどく贅沢で儚げなコントラスト。私は無性に悔しくなった。
 何よりも、坂下くんの背中は高級品に思えた。
 大きくて、固そうで、切ない。
そんなことをゆっくり考えながら、私はペダルに足をかけたままじっと立ち尽くしていた。




         1 

3年C組女子七番、高原聡子というのが、ここでの私の全て。 
私の所属するクラスは少し突出した「出来る集団」だ。大学進学クラスということもあり、殆ど全員勉強が出来る。
半数は運動部員、もう半数は文化部員で、それぞれがいかんなく個性を発揮。なんとなく団結力もあって、だからクラス対抗何とかになると、総合能力でいつも他を圧倒する。それでいて笑いの絶えない集団で、もうどこを切っても火の打ち所がないのである。
このクラスになって2年目を迎えても、私は誰かと同じようなスイッチが見つけられない。勉強も、運動も、会話も、友達も、流行も全部。
自分は高尚だと信じてずっとやってきたら、自ずと周りは要らなくなった。さすがにクラスメイトや教師たちは頭が良い。私に構わない。触れても触れられても面倒くさくなるという事を互いに分かりすぎてる。
人を欲したら必ず、人を憎んで自分を蔑むってことを、私はわかってる。
だから私にとってクラスメイトは、単なる観察の対象。それ以上でもそれ以下でもない。
クラスの女子は3つくらいのグループに分かれていた。まずは、ほとんどが運動部員で明るい女子たちが五、六人集まったグループ。このグループは何かと目立っていて、発言力もある。次は文化部員の多いグループ。全てにおいて平均値の真ん中にいるような女子の集まりだ。そして、大人しくて地味なグループ。スカート丈が長い。
こうして観ていると、みんな「同じ穴」に収まるのが安全でそれなりに楽しいのだろう。すごく小さな世界でそれがまるで自分の全てかのように、群れることに必死だ。間違ってないと思うけど。
女子の一番目立つグループは皆顔が可愛らしい。その中でも一番の実力者は松田里奈という女子である。
テニス部主将でクラス委員。飛び抜けて美人で、明るくて、頭が良い上に統率能力もあって、度々前に出てクラスをまとめていた。
私は彼女のことをよく知っているわけではないけれど、制服の着こなし方は上手だと思っている。
たぶん多くの女子にとってのトレンドである、指定の白いニットベストにやたら短いスカートとルーズソックスという着こなしをしている松田里奈は見たことがない。
いつもスカートと同生地の短い指定ベストに、スカートは膝より少し上くらいで、紺のハイソックスだ。それが集団の中で別格感を余計に煽っている。
男子は、髪型ばかり気にする目立つグループが一応あって、何となくはグループ分けされているけど、大半が無党派らしい。個々にポジションがある感じで、みんな気の向くままに会話している。私も男子だったら、少し変わっていたかも知れない。
坂下くんのクラスでのポジションは、大体中間くらいだと思う。野球部ということもあり、目立つ男子と一緒に居ることが多いが、余り積極的ではないようだった。休み時間に一人で席についている姿も、よく見かける。 

私は今まで気にも留めなかった坂下くんを、目で追うようになった。河原でのあの光景が、いちいち私に付きまとう。
何であそこにいたのだろう。
何を見つめて、何を考えていたのだろう。
いつ何のきっかけで立ち上がって帰るのだろう。
坂下くんは、一体どんな人なのだろう。
私にとってその行為は、立派に楽しめるものだった。何の興味もない人の動向を気紛れで観察するよりかは、楽しめそうだ。
「高原さん、呼んでるよ。」
笑みが溢れそうな想像を断ち切ったのは、沢村という女子の声だった。彼女は吹奏楽部で中堅グループのまさに象徴のような存在。
私を呼んだのは隣のクラスの番場豊だった。
「オマエいっつも一人で何してんの。俺んとこ来ればいいじゃん。」
そう言って豊は、丁寧に折った地理のプリントを差し出した。
豊とは小学校からの友達だ。共通の趣味を持っていて、なんとなく波長が合った。社交的で友人の多い豊だが、未だに私のもとを離れなかった。授業中に女子みたいに手紙を書くのが趣味で、いつも休み時間に渡しに来る。だから、私は豊としか会話しない日がほとんどだ。
「妄想もたいがいにしろよ。」
チャイムが鳴って、豊は足早に自分の教室へと戻った。
次の古典の授業中に私は豊のくれた紙を開いた。小テストの裏面にびっしりと書かれた私よりも綺麗な文字をなぞる事で、何とか穏やかにこの時間を潰せそうだった。
豊はこうして大体一日に一度、私に手紙を書く。他愛のないことから深刻なことまで、話題は果てしないが、最近は豊の新しい彼女の話で持ちきりだった。
けれど毎日豊が私に手紙を渡すという光景は、正しくないらしい。一度、こんな陰口を聞いた。
 高原さんと番場くんって付き合ってるのかなぁ?
 ありえないでしょー、高原さん何考えてるかわかんなくて怖いしー。
私はこうゆうのが一番イラッとする。でも豊に言ったら笑っていた。文化の違いだから仕方ないって、そんなような事を言っていた。
まだ下校まで何時間もある。あたしは今日の残りの時間を大いに活用して、豊への返信を書くと決めた。今日は、たくさん書くことがある。

私の席は廊下側の後ろから二番目。坂下くんは窓側の前から二番目で、距離はあるものの角度的に無意識に目に入る位置だった。坂下くんは斜め後ろすぐの席の松田里奈とよく話をしていた。
それは以前からよく見る光景だったけれど、今は、坂下が松田里奈の方を向く度に坂下の表情が私の目に焼き付くのだ。
窓枠に囲われた気の遠くなるような空の青。そこに坊主で陽に焼けた坂下くんがひどく映える。
単なる映像美。
単にそれを観察し続ける私。
まだほんの少しの動揺を、豊への手紙に印した。
坂下くんの背中に触れてみたいと思ったこととか。
茶色のプリントの上だけに、私は思う存分変人ぶった。何となく込み上げてきた笑みを、必死に噛み砕きながら。





         2 


本格的に夏が到来しても私の脳みそは懲りなかった。
豊はやはり物分かりが良く、私の妄想や映像化などの変人行為にひたすら好奇心で応えてくれていた。
あれからも、河原でじっとしている坂下くんの姿を見かけていた。けれど私と坂下くんを繋ぐものはひとつも無くて、それだけが歯痒く、これからどんどん自分が貪欲になるのだと思うと、鬱になる。
もしこのまま、私が坂下くんに恋をしたとする。
周りと同じような、状況と感覚で恋をするのだろうか。その「普通さ」は、この世で私が一番嫌いなもの。

教室は夏独特の「白さ」で満ち溢れていた。
坂下くんも、どんどん陽に焼けて、「白さ」の空気によく似合っていた。
高校最後の高体連が始まったとかで、欠席者が相次ぐようになった。
そして生物の移動教室で思いがけない事が起こった。
欠席者の分を詰めた席順で、坂下くんが私の目の前の席に座ったのだった。平机に男女3人ずつが向かい合わせに座る形で、気を抜くと足が触れてしまう距離だ。
平然を装う私の目の前で、坂下くんは隣の席の鈴木と冗談を言い合っている。盗み見をさえままならない。そのうちに坂下くんは自分の筆箱を探り始めた。
「あ、シャーペン忘れた。鈴木貸して」
「俺一個しかねぇよ」
何だよー、と言って坂下くんが頭を掻きながら、こっちを向いた。
「高原、ある?」
私はひとつ胸が高鳴ったのを確認したあと、自分の使っていたシャーペンを自然に坂下くんに差し向けた。
「いいの?サンキュー」
そう言って、坂下くんは首を少し傾けてシャーペンを取った。胸がざわめいて仕方ない。
私の思考がうまくまとまらないうちに、授業が終わった。坂下くんと鈴木は、急いで教科書をたたみ廊下へ駆け出してゆく。
坂下くんは私のシャープペンシルを持ったままだ。
その「繋がり」に、私は期待をしていた。
期待と妄想は、放課後までにはベタベタなローティーン文庫に書かれてる方向に膨らんでいった。
とりあえず、やらずにはいられないと。
今日あの場所に坂下くんがいたら、話しかける。

夕日の橙色が、右頬を容赦無く照らす。全速力で自転車をこいでも逃れられない。
あの河原が近づくにつれて、私の心臓の鼓動は速さを増した。土手に、自転車が一台停まっているのが見えたのだ。
坂下くんがいる。いつもと同じように、夕日に顔を向けて座っていた。
私は坂下くんの自転車の横に自分の自転車を停めた。目線を坂下の後ろ姿に向けたまま、自分の気持ちが冷静になる瞬間を見計らう。息を、大きく吸ったり吐いたりして。
「坂下くん!」
声が浮ついていた。大きい声を出すのはどれくらいぶりか、わからない。
私のうわずったその声に、坂下くんは肩で小さく反応した。そして、こっちを向いて、夕日に撹乱された目をひとつこすった。
「高原?」
「そこ行ってもいい?シャーペンが…」
私はそう言うと同時に、草むらに足を踏み入れた。
坂下くんが自分の鞄を慌てて探っている。私は生い茂る雑草に足をとられながら、坂下くんのもとへ駆け下りていった。
「すっかり忘れてた。ごめんな。ハイ」
坂下くんが立ち上がって、私にシャープペンシルを差し向けた。受け取ったらこの「繋がり」がひとつ終わる。
「高原も座れば」
私はその思いがけない言葉に無意識に反応して、鞄を隔てて坂下くんの横にゆっくりと座った。
雑草が素足にチクチクと当たり、こそばゆい。
仕方なくしゃがんだままでいると、坂下くんがそれに気付いて、小さく笑った。そして鞄からジャージの上着を取り出して、私の膝の上にそれを放った。
「それ敷けば」
「え、いいの?」
「全然」
私は坂下くんのさりげない優しさを受け入れ、ジャージを下に敷いてその上に座った。
秒速で、夕陽が落ちてゆくような感じだった。
私はやっと見つかった言葉を発した。
「練習終わったの?」
「うん。大会もうすぐだから、最近早いんだ」
よかった。私はごく自然に振る舞えている。坂下くんも、普通に応えてくれる。そう思ったら、口がどんどん動いた。
「坂下くん時々ここにいるよね。何やってんの?」
坂下くんは、恥ずかしそうに首を掻いた。
「別に何もしてねぇけど青春?」
多分、冗談で言っている。でも何故か本気だとしてもカッコ悪くはないと漠然と思う。
「変な奴だと思ってない?」
「ううん」
「練習で傷んだインナーマッスルを癒してんだ」
「インナーマッスル?」
「内側にある筋肉。見た目にはわかんないけど、裏側の…。まぁ基本だな。基本の筋肉」
「…野球部って、みんなそんななの?」
「ううん。俺だけ。スポーツ医学とか筋肉のこと考えるのとか好き」
私は思わず吹き出してしまった。坂下くんも、キラキラな笑顔をこっちに向けた。
なにかが弾けたらしく、坂下くんは喋りだした。どうゆう練習でどこに筋肉が付くとか、そんな筋肉マニア的な話ばかりだけど、私は夢中に話す坂下くんを見るのが楽しかった。
「あ、ごめんな。俺高原とあんま話したことなかったのに。引いた?」
「結構おもしろいけど」
「高原さぁ、結構普通じゃん。いっつも本とか読んでるし、俺ら見下されてるイメージあったけど」
私の動揺なんて考えなしに、坂下くんはさらっとそんな事を言うのだ。
確かに人を見下してる。でもそうしなきゃ、私は生きて行けないから。青春謳歌みたいなのに嫌悪感があるし。
私らしくない言葉が心の中で反芻している。でも口に出すことはできなかった。

冷静になると、ありえない状況だと思った。
どうしようもなく無垢な坂下くんの映像に私が入り込んだせいで、うんざりするような自分自身が見えてきた。
けれどそんなものは大した事はないと思わせられる。それは相変わらず夕陽のオレンジに眩しい坂下くんの姿のせいだ。
人に対する初めての期待の感覚。その昂ぶりは、泣きたくなるような変な感じだった。
夕陽はすっかり落ち切って、私は何度も坂下くんの方を振り返りながら帰路についた。




         3


けれども日常はちっとも変わらず進んでいって、相変わらず坂下くんと教室で話すことはなかった。けれど「普通」という言葉を坂下くんの声で頭の中で呟くと、今まで以上に私は平気だった。
あれは映像の中での出来事として割り切りたい。でもその映像の続きを待ちわびるという楽しみを私は得たのだ。
クラスメイト達は皆光に照らされて、普遍的な青春を焼き付けてゆくのだろう。
落とされた影に目を向けるのは私くらい。けど、それが?私はもっと素敵なものに胸が満たされてるのだ。
ほんのりとした高揚の続きで、妄想に駆られる。それで充分生きていけてる。
 
自分の席から見る坂下くんの姿。松田里奈が坂下の日焼けした腕に触れる。松田里奈のその手も充分に焼けていて、それは「普通」の光景でしかなかった。
私は自分の腕を見る。夏が来ても真っ白いままの肌。赤くなっても、黒くなることは無かった。
こんな手で坂下くんにあんな風に触れてしまったなら、それは「異常」なのかも知れない。
帰りのホームルームで、担任の伊勢崎が明日の午後は野球の全校応援になるという連絡があった。
3年生にとって、最後の大会である地区予選だった。教室中が一気にざわついた。
このクラスは野球部員が5人も居て、担任の伊勢崎が監督なのだ。松田里奈が伊勢崎に、特別にクラス全員分の応援用メガホンを用意して欲しいと率先して提案していた。
ああ、またクラスの一体感が高まるイベントの登場だ。
学校祭も体育祭も、さすがにわたしは反応に困ることが多かった。
けれど今回ばかりは私も少し楽しみだった。「野球」で「青春」する坂下くんが見れると思ったら、お揃いのメガホンを持って応援するという間抜けな光景も、別に構わない。
「豊、このあと時間ある?」
放課後、廊下で豊を見つけて呼び止めた。豊は小さく頷いて、久々にやる?と私の顔を覗き込み、楽しそうに笑った。

空き教室で、豊と私はたまに語り合った。語ると言ってもとりとめの無い事ばかりだったが、普段教室で喋らない私にとっては数少ない舌の発散場所で、血を大量に流したあとのように体が澄んでゆくのだ。
「坂下観察楽しいみたいだな」
校舎近くの個人商店で買ったホームランバーを頬張りながら、豊がそう言った。
「わかる?」
「うん。何か顔が明るい」
私は無防備に微笑んでしまい、自分に驚いて頬を両手で押さえた。豊はそれを見て、鼻で軽く笑った。
「好きなんだなぁ」
「うん。たぶん。でも、なんかやだ」
なんとなく、まだそうゆうのに染まりたくないと、あたしは思っていた。
「悪いことではないよ。あ、ハズレだ」
豊はアイスの棒をゴミ箱に向って投げた。ゴミ箱に入らなくて、豊は軽く舌打ちをして浅く椅子に座り直した。
「よくわかんない」
「ちょっとどうでもいい情報かも知れんけど」
私はすぐ溶けるアイスと格闘するのに必死で、豊の話を頭半分で聞いていた。
「坂下とさぁ、松田って噂になってんじゃん。もたついてると松田に取られるよ」
噂になってるのかぁ。仲いいもんなぁ。不思議と、それくらいの感情しか浮かばなかった。
「恋は楽しいぜ〜」
豊は相変わらず他校の彼女と上手くいっているらしい。そしてその事を話したくてたまらないらしい。
少し、気持ち悪い。
一度彼女の顔をプリクラで見たけれど、お世辞にも美人とは言えない顔だった。
それでも可愛らしくてたまらないと、豊は言う。ちょっと尊敬の念すら覚える。
そんな人の幸せなことより、手に持ったアイスが大変だ。どんどん溶けるもんだから。
「なにボーっとしてんだよ」
松田里奈と坂下くんの事を勝手に映像化してしまいそうだ。
お似合いすぎて、苦しくなることはわかっている。
「ハズレた」
豊の話を割るようにそう呟くと、一気にアイスを食べ切った。
奥歯に凍みて、そのじわっとした痛みを残したまま私たちは校舎を出た。

次の日、天気は曇りで肌寒かった。けれど教室はいつも以上に活気に満ちていて、午後からの野球の応援の話で持ちきりだった。
昼休みの終了と同時に、全校生徒は歩いて行ける距離にある市営球場へと向かう。その喧騒の中に私も混ざった。
球場へ着くと試合は既に四回裏で、2対0。負けていた。一塁側の観客席の一部に綺麗に緑色のメガホンが並んでいて、ベンチに入れなかった野球部員のすぐ横に松田里奈のグループが既に応援していた。彼女達は昼休み返上で場所取りをしていたらしい。すごい気合いの入りようだと、私は少し可笑しくなった。
3Cはこっち!!と松田里奈が叫んで、皆がメガホンゾーンに集まった。私も松田里奈のすぐ後ろに腰を据えた。
打球の行方に皆は一喜一憂する。四回裏はうちの高校の守備で、ファーストを守る坂下くんの姿を確認した。
誰かが、坂下くんかっこいい、と言うのが聞こえた。
松田里奈が、坂下くんがんばってー!!と声を張り上げる。その後に他の部員の名も呼んだが、私には坂下くんを呼ぶ声だけが違って聞こえた。
松田里奈は極めてさわやかだったはずだ。私は、豊から聞いた噂のことで頭がいっぱいだから仕方ない。
もし私が松田里奈だったら、どんなに良かったのだろう。少なくとも、メガホンを下に傾けたまま動けないなんてことにはなっていないと思う。
けれど今は、「野球」をやっている坂下くんを記憶に擦り込ませるという私なりのやり方があった。
低い構え。しきりに上げる掛け声。送球を受けてベースを踏む。時折、口角を上げてキラキラと笑う。
その場面場面に、胸の高鳴りは速さを増した。手が汗ばんでは乾いて、それが繰り返される。
試合中一度も見なかったスコアボードは、2対0のまま動かずに試合は終わった。歓声がため息になって、そのあとすぐに温かみのある拍手が巻き起こった。
観客席に向って、一列に並んで礼をする野球部員の大半が泣きじゃくっていた。私は坂下くんを見つける。
泣いてはいなかった。ただ歯をくいしばって何度も瞬きを繰り返し、涙を堪えているようだった。
その坂下くんの姿が胸をひどく締め付ける。私の体は一切の動きを止められ、目線だけが彼に釘づけになった。
目の前では松田里奈は涙ぐみながら大げさに拍手を送っていた。それは私から抜け落ちた感情がそのまま形になったようで、妙に煌めいて私の目の際に残った。




         4 


その日の帰り道。薄い雲と厚い雲が混在する空の下で、私は自転車を飛ばしていた。無心に近い感情で、ひたすらに河原を目指した。
河原に着くと自転車を乱暴に止め、長い雑草が足をくすぐるのも構わずに土手を駆け下りた。
いつも坂下くんが座っている場所にぺたんと座り込み、とりあえず荒らまった息を整えた。
今日、坂下くんは来るだろうか。来たとしても、私は言葉の選び方さえ知らない。
それどころか。
坂下くんの存在。松田里奈への感情。豊の言葉。たくさんのもどかしさを、今の私は抱え込んですぎてしまっている。
今までに溜め込んだものを、ぜんぶ吐き出してしまいたい。
私は久しぶりに、泣いた。川の音に消え入りそうな、小さなうめき声さえ上げて。
涙を途切れさせないように、心の中で必死に自分を可哀相に仕立て続ける。
私なんて無くなってしまえばいい、とか思ったり。
ぜんぶ吐き出してまっさらな心になったなら、もしここに坂下くんが来ても、月並みな言葉くらいは言えるだろう。
そんな気がして、私は泣き続けた。

時間がどんどん流れて行った。
最後のほうには意識と関係なく流れ続けてた涙も枯れた。空は相変わらず曇っていたけれど、いつもなら夕焼けが差す時間だろう。
いつのまにか、私は今ここに坂下くんを欲していた。心が空になると、それを埋めるものが欲しいのは当然だ。
でも、もう帰ろう。今日ここは彼だけの場所で、私の場所ではないのかも知れない。
ひとつ鼻を啜って立ち上がると、自転車のブレーキ音が聞こえた。振り返ると、そこに坂下くんがいた。
「高原」
坂下くんは鞄を自転車のかごに入れたまま、土手を駆け下りてきた。
私は、泣き腫らした顔を見られないように背けたまま立ち尽くした。
坂下くんが私の左横に座り込む。私もそれにつられて、また腰を下ろした。
「今日、惜しかったよね」
「うん」
坂下くんの返答からは何の感情も読み取れない。
そして思い出したように立ち上がり、鞄からコーラの缶を取り出して、坂下くんはまた隣に座った。
坂下くんは、コーラを勢い良く飲み始めた。
私はあっけにとられていて、ただ呆然としていた。
「久しぶりだ。美味い」
「え?」
「野球部、炭酸入ってる飲み物禁止だったんだよ」
ああ、もう今日で引退だからか。
坂下くんは、切ない表情でコーラを飲んでいる。脈打つその喉元を眺めながら、私は思った。
夕焼けだったらよかったのに。
ここにオレンジの光が欲しい。
「ちょっと寒みーな、今日は」
缶を持つ手がだんだん弱くなっていって、ぶらんと腕を投げ出している。川の向う端に目線がいっている。
「野球、終わったんだよな」
この台詞に、オレンジの光があったらよかったのに。
坂下の切なすぎる声。けれど顔は無表情だった。それがいっそうに苦しかった。
「終わったんだよ」
独り言のような二度目の呟きが、私の胸に鋭い痛みを落とした。文章が美しい小説が、途中で読めなくなる。あの感覚によく似ている。
けれど、今「人」にこんなにも揺り動かされてる。しかもとてつもなく強烈に響いている。
私は坂下くんの手からぶら下がる缶を奪い取って、残ったコーラを一気に飲み干した。
無意識に。けど、止まらない。
空き缶を目の前に放ったら急に体が冷えて、私は両腕を押さえて身震いした。坂下くんはその一瞬の出来事に表情を取り戻し、私の間抜けな様子を見て笑った。
「それはさすがに寒いだろが」
「うん」
読めなくなった小説は、私が続きを考えればいいだけのことだ。私は壊れてる。坂下くんも、壊れればいいのに。
「今日、晴れてたらよかったのに」
私も同じことを思っている。
「天気よかったら、川飛び込んで叫んでさ。うわーってなって。そうゆうの、なんかよくあるじゃん。テレビとかで」 
「それ、やれば」
「え?」
壊れた私はもう、引き下がれなかった。立ち上がると大股で歩を進める。迷い無く水の中へローファーごと脚を突っ込むと、そのまま川の中心まで一気に進んだ。
「何やってんだよ!冗談で言っただけだって!」
水高は膝上ほどで、スカートの裾が水脈に沿って揺れた。私はなんとなく、うれしくなった。
単純な「青春ごっこ」の、ありふれたシーン。水の冷たさも、曇った空も、たった今降り始めた小雨も、立派な演出だ。
「来ないの?」
戸惑う坂下くんの方へ向いて、私は手を差し出した。
坂下くんは、困惑した顔を緩めて笑顔になる。そして、シャツを脱いだ。
ざぶざぶと水を鳴らして、何度もぬかるみに足をとられながらながらこっちへ向ってくる。
「冷てーよ!」
坂下くんが嬉しそうに叫んだ。小雨が、だんだんとまとまった雨に変わってゆく。
私は空に顔を向けて、目を細めた。腫れたまぶたに雨が当たって気持ちいい。
「高原、これ」
坂下くんは、私の目の前で背を向けた。鍛えられた背中に、何度も雨粒が弾けていた。背骨の窪みは、吸い込まれるようにキレイだ。
「野球で出来た筋肉はもう見納め」
そう言って、自分の肩を愛しそうに掻いた。私はいつのまにか、その背中に不釣り合いな白い手で、ごく純粋な気持ちで触れていた。
坂下くんは何も言わずに、ただ空を仰いだ。
これはこれで、涙を流すには丁度いい雨。
とんでもなく上手く綺麗に出来すぎた「青春ごっこ」のクライマックスシーンだと思った。

ここで、終わればいい。私のくだらない人生なんて。




         5 

「高原、おまえだけだぞ。進路が決まってないのは」
放課後の教室で、私は担任の伊勢崎と向かい合わせに座っていた。伊勢崎は私が白紙で提出した進路希望調査のプリントを手にしている。
クラスの半数以上は国公立大学への進学を希望しているらしい。皆部活を引退し、教室はこの頃めっきり受験勉強の空気になっている。
「卒業してから考えようと思ってます」
伊勢崎はこっちを睨み付けながら小刻みに頷いた。
「先生は心配して言ってるんだ」
びっくりするくらい、中身のない台詞だった。
「今からでも大学遅くないんじゃないか。高原なら国公立も狙えると思うぞ」
大学進学コースに居る時点で、この時期に進路未定という事が学校的に大問題だということは分かる。伊勢崎の顔には面倒臭さが明らかに見てとれた。
尊敬できるような先生であれば困らせたくないと思うだろうが、私は伊勢崎が大嫌いなのだ。
40歳目前にして独身。顔は爬虫類のようで気持ち悪い。野球部顧問として指導だけは熱心だが、話ばかり長くて暑苦しく、担任業務も動揺にねちっこくて、何一つ良いところが見つけられないのだ。
目の前で腫れ物に触るような態度を露骨にとる伊勢崎を見ていると、具合が悪くなってきた。
「進路を決めないと卒業できませんか」
私は早く切り上げたくて、これでもかといいほど無機質な言い方をした。
「いや、そうゆう問題ではなくて…」
「帰ります」
絶句した伊勢崎の前で椅子でも蹴り倒してやりたかったが、エネルギーの無駄だと思ってやめた。私は速やかに鞄を持って教室を出た。
廊下には参考書を持った松田里奈がいた。
「終わった?じゃあね、高原さん」
私と入れ違いに、松田里奈は伊勢崎のいる教室へと入っていった。
「何の問題も無い」彼女の姿を見て、急に胸が締め付けられた。
坂下くんとの河原の一件以来、私は混乱していた。映像が現実とリンクしっぱなしで、妄想すらままならない。
私は坂下くんが好きなのだ。
坂下くんが私を好きになって欲しい。
あの日から、河原では会ってない。けれど教室で坂下くんが私に向かって無邪気な笑みをこぼす度に、私は安心した。
あの映像が現実に刻まれた。私は満たされ続けて行けると思い込ませようとした。
けれど松田里奈と坂下くんの噂というリアリティが拭えない。
ぬるく、まどろんだ、正体不明の気持ちが続いていた。

伊勢崎から何かお達しがあったのか、次の日から松田里奈が私に話し掛けてくるようになった。
私の心情を探るために派遣されたのだろう。休み時間、何聴いてるの?とか何読んでるの?とか、そうゆう類の事を聞いてきた。その都度私は当たり触りの無い返答をして松田里奈はグループの中に戻って行く。そんなことが繰り返された。
グループ内では、里奈もよくやるよねーといった陰口が囁かれていたが、松田里奈は熱心に任務をこなすのみだった。
しかし私はもう、うんざりだった。よりによって松田里奈。その直球で、余計な考えが私のぬるくて淡い精神状態を更に乱すのだ。
どうせもうすぐ夏休みだから、それまで松田里奈の正義から逃げ続けるつもりだ。
放課後、私は図書館の返却期限が迫っている本を教室でひとり読んでいた。殆どのクラスメイトが部活を引退していて、放課後に残るものは居ない。豊も、ブサイクな彼女と同じ大学に入ることを目指し、受験勉強の真っ只中だ。
ひとりの教室で、大衆の流れに背いて本を読む。ちょっとだけ陶酔する。
大丈夫だ。ひとりで大丈夫。今までの私は崩壊していない。
「あれ。高原さんまだいたんだ」
陶酔は断ち切られた。松田里奈の声だ。彼女は自然な振る舞いで私の前の席に座る。
職員室で質問巡りだよーと言って持っていた何冊もの参考書を机の上に乱暴に置いた。
「あたし医大受けるんだよね。高原さんは?」
帰るに帰れなかった。松田里奈は早速、核心に触れている。受験勉強に没頭したい彼女にとって、私のことなんて手っ取り早く片付けたいに違いない。
「本当ゆうと、伊勢崎に探ってくれって頼まれたんだよね」
「そう迷惑かけてごめんね」
自分でも驚くほど素直に出た言葉に、松田里奈は慌てた様子だった。
「ううん、全然。ただ、高原さんが悩んでたり迷ってたりしてるなら、あたしでよければ聞くし!」
そんな優等生の台詞が嫌味なく似合ってしまうのが松田里奈だった。
「正直、将来のことなんて今すぐ決めろって方が無理だよ」
私は小さく頷いた。
松田里奈が少し考え込んだように間をおいてから、全く関係の無い話を繰り出した。
「いや、さっき数学の宮瀬の所いったらさー」
松田里奈は、いろいろなことを話し始めた。
先生の話や、部活の話。周りの恋愛沙汰などにも、話題は及んだ。
彼女は一方的に話し続けたが、私はいつの間にか笑いながら相槌をうっていた。
さすが松田里奈。誰もの心を掴むような語り口調で、魔法をかけられたようだった。
「あ、ごめん。あたしばっか喋って」
「ううん、たのしいよ」
「なんかさ、高原さん意外に喋りやすい人だから」
いつか坂下くんに言われた言葉を思い出す。高原、結構普通じゃん。その時と同じように、心に響いた。
私は今一般的な女子高生の会話を為している。松田里奈の魔力のお陰で、ちっとも悪い気分ではなかった。
「ね、高原さんは、好きな人とかいる?」
すごく女子高生っぽいトピックスだったが、坂下くんと松田里奈の噂の手前、避けたい話題だった。
「え?いや、あたしは。松田さんは?」
「あたし?片想いだけどねー」
相手は坂下くんだろうか。さらっと片想いだと言ったのが、松田里奈らしい。
私は完全に松田里奈に心が惹かれているのを感じた。
それは坂下くんとの青春ごっこに似た感覚だった。ひとりを気取っていた私が、こんな状況に陥っている。
奇跡みたいだ。贅沢な、奇跡。
松田里奈の言葉のあとの沈黙の中で、私は映像と妄想が撹乱する頭の中で藻掻いていた。
坂下くんと松田里奈は、当然のように現実で並べられる。
私と坂下くんは、実体がなくて儚い。
松田里奈と私。
もう、よくわからない。
私の脳は、どうしてこんなに複雑にしてしまうんだろう。私はいつもひとりで、脳の波はいつも静かにたゆたっていたのに。
今は誰かに心が掻き乱されても、仕方ないかもと思う。
傷ついても誰かに傍に居てもらいたいかもと思う。
「松田さんの好きな人って、坂下くん?」
松田里奈が速い瞬きをした。
「急に、なんで?」
「噂になってるみたいだから」
松田里奈はその可愛らしい顔から長い息を吐いてから、少し間を置いて言った。
「片想い。坂下くんは、野球野球の人だし」
私は多分、気味が悪いほどの優しい顔で聞いていたと思う。
「でもすごい好きだから。頑張るよあたし」
少女漫画かよ。一瞬思って、掻き消す。
「私も坂下くんが好き」
やっぱり、少女漫画だ。
自分の想像より遥かに穏やかな口調。それに反して、松田里奈の顔は驚きを隠せない。
「でもそれだけだから。がんばってね」
本当だ。
松田里奈の気持ちがはっきりして、妙に心が静まったのだ。
私はひとりに戻りたい。人を欲したら限りがなくなってしまいそうで、ひどく怖いから。

間もなくして、私と松田里奈は校舎を同時に出た。坂下くんの話題は分かれ道まで一切出なかった。
松田里奈はいつもどおりの完璧な笑顔を見せてバイバイと言って、スカートをはためかせて自転車に乗っていった。
私は出来るだけ何も考えないようにして、自転車を走らせた。強い陽射しが容赦なく私の腕を照りつけるのにも、構わずに。
河原に坂下くんの姿が見えても、私はわざと目を霞ませた。
そこに無いものとしたくて、うんと目を霞ませた。
 ─私を待っていてくれているのかも知れない。
油断した隙に浮かんだことを必死で掻き消したら、涙が溢れ出した。
その時、道路の小さな起伏に体が異常に反応した。急に恐怖を覚えた私はブレーキを力いっぱい握ってしまい、バランスを崩して自転車ごと横倒しになった。
擦った肘から血が滲む。じんわりとした痛みも伴って涙が余計に流れだす。座り込んだまま、静かに私は泣いた。
 ─大声をあげて泣けば坂下くんに届く。
 ─坂下くんはきっと駆けつけてくれる。
自己嫌悪だ。
涙を拭い続けた夏服の袖は、生暖かい風さえも冷たくした。




         6 


私は、空虚な夏休みを過ごしていた。
18歳の夏が急速に過ぎて行く。それを黙って待つように、本を読み、音楽を聴き、映画を観て過ごす毎日。それだけで空はどんどん遠くなってゆく。
何を身体に取り入れても、幸せじゃない感じだ。
松田里奈や坂下くんとあったことが、既に幻のようだった。けど、それが?私は幻を抱きながらも、自分を取り戻してゆくのだ。

夏休みの終盤に豊から届いた手紙で、松田里奈と坂下くんが付き合い始めたという事を知った。
知らないよりは知ったほうがいいと思って。豊の綺麗な文字で、そうやって書いてあった。
私はぼんやりと、その事実を呑み込んだ。

時々、あの河原に行った。
晴れてる日には川に飛び込みたくなった。
怖いくらいに、心は穏やかだった。
遠い幻の映像が目に浮かぶ。両手で水を跳ね上げる。
今見ているきらきらした水の流れが、青い空が、いつか私の青春の映像に都合よく混ざっていくんだろう。

二学期が始まって、賑やかな教室にまた投下された私は、すっかり以前の自分に戻っていた。
豊は私に対していくらか敏感に扱った。けれど私は、また以前のようにとりとめのない内容の手紙を書くだけだ。
松田里奈はむやみに話し掛けて来なくなり、私は坂下くんを目で追うこともやめた。
そして穏やかに日々は流れ、坂下くんと松田里奈が一緒に下校する姿を誰も気にしなくなった頃、私はあの河原でひとりたたずむ彼の姿を久しぶりに見たのだった。
空は最初の頃よりずっと高く白みを増していて、坂下くんの坊主頭も少し伸びていた。
私は新鮮な気持ちで、叫んだのだ。
「坂下くん!」
坂下くんが、振り返って笑った。私もそれにつられて、笑い返した。
美しく編集したこの夏に思い残すことがあるとすれば、坂下くんの背中。
晴れた空の下で、もう一度見たい。
私は土手を駆け下りて、そのまま、川の中へと足を入れた。
この最後の欲望のために、思いきりに壊れたくなった。
彼は満面の笑みで言う。
「おかしいよ。なんか前あったな、これ」
私は嬉しくなって水を掻き上げる。何度も、何度も。
「坂下くんも壊れてよ」
「えー?」
「だって、晴れてるし」
坂下くんが立ち上がって、こっちに来ようとしている。私は動きを止めて、彼ををじっと見つめて言った。
「坂下くんが好きだった」
坂下くんはじっとしていた。特に驚いた様子がないのは、空気に溶け込むような言い方をしたせいだろうか。
「背中。触ったとき嬉しかったよ」
そう言って私はまた水を跳ね上げる。
坂下くんは、よくわからない感じの笑いを浮かべて、あの時より少し伸びた坊主頭を掻いている。
そして、シャツを脱いでこっちに向かってくる。
なんか、叫んでる。
すごくバカバカしい、この空間がいとおしい。


もうすぐ、秋になる。
2007.08.28 Tuesday ... comments(0) / trackbacks(0)
#不本意なままの本棚にようこそ。
 



ゆっくりしていってください。

日記は「TOPIC」今日のヒントから。
だらだらと更新中。

欲望の赴くまま雑誌
という連載を始めました。
たくさん雑誌を読んで勉強しています。

今日の吸収はじめました。
その日好きになったものを公開。嗜好を曝します。



よみもの更新履歴


2009.07.19 
お遊びあそばせ
→模範回答という名のつっこみはこちら

2009.05.31 
妄想短編作文
「錆びついた夢」 (全3篇)



前世妄想作文
「生まれるまえに、生きていた」 act.003
「昭和初期に非業の死」20代 女子


きまぐれでつづく妄想作文
ピース・オブ・アップルパイ 第四回


短編妄想作文
「彩丘に待つ」
曾祖母の昔話を描いてみました


短編妄想作文(オマージュ)
「掻きたい背中」
高校時代に書き始めた、ライバル心むき出し短編



その他のよみものは「TOPIC」よりスタート。
そして、気が向いたら足あとください。
こちらです。
2007.08.10 Friday ... - / -
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