「生まれるまえに、生きていた」 act.003
「昭和初期に非業の死」20代 女子
舞台は現代のとある住宅街。
ここが赤線と呼ばれていた頃の話。
お鈴は単純に舞踊が好きな女の子だった。
19になったばかりのお鈴は、ただ踊りが上手く成りたかっただけで、午後から開かれる舞踊の稽古に足しげく通っていた。毎日、毎日。
周りの女性はこのあたりで働く遊女たちがほとんどだった。
お鈴はそこに近からず遠からずの、この頃増えてきているカフェーで働く身だった。
天涯孤独のお鈴は、踊りだけが生きがいだった。
しかし「好きこそ物の上手なれ」にも例外は在ったわけで、ちっとも上手くならなかった。
師匠には目の敵にされ、毎日、何度も、叱られていた。
ただ、たとえ下手くそでも、踊っているときは楽しくてしかたない。
お鈴はこの街には相応しくないほど、純粋な心の持ち主だったのだ。
そんなお鈴だから、カフェーの仕事は楽しいものではなかった。
ひとりで気楽に暮らせて、舞踊の稽古代が出せる程度のお給金はもらっていたが、カフェーは表向きだけが健全だった。
同僚たちは、そこに来る男たちに身体を売ることが本業なのだ。もちろん、通ってくる男たちも。
お鈴は自分のルールを決めて、売春だけはしまいと心に誓っていた。
本気で好きになったひとに初めて身体を捧げたい。
そんな、またこの街に似合わないモットーを掲げて、周りには好奇の目で見られていた。
だから接客する男たちともなあなあな関係のまま。お鈴はそれでもいいと思っていた。
ある日、珍しい男と出会った。
名は誠治と言う。お鈴の横に座って、酒をちびちび飲むだけの男。
大抵の客は「身体の値段」の話をすぐに引っ掛けてくるのに、誠治はこちらから話しかけないとひたすら黙っているような男だった。
来る日も来る日も、そんな日が続いた。
「お客さん、お酒が好きなんだね」
「うん。まあ」
こんな会話を何度繰り返しただろう。
でも何故か、お鈴は誠治に惹かれていった。
「あたし、家族がいないのね。鈴っていう名前も、自分でつけたの」
「ああ、そう」
「家族がほしい。誠治さん、一緒に住んでほしい」
「うん。わかった」
お鈴の狭い部屋に、誠治は荷物ひとつ持たずにやってきた。
初めてのふたりの暮らし。誠治に身体を許したお鈴は、ひたすらに幸せだった。
あんなに好きだった踊りは、師匠の扇子が頬に向かって飛んできたことを切っ掛けにやめてしまった。
誠治と幸せな生活を送りたい。
いつか子供が生まれて、ふたりで年を重ねて、いつまでも…。
その夢だけが、お鈴の生きる糧になった。
一緒に住むようになっても、誠治の仕事はわからなかった。
時々お金を持って帰っては来るのだが、一週間ほど帰ってこない日もあった。
最後に誠治の顔を見てから3日経ったとき、お鈴は朝から具合が悪かった。
時々、咳が出ることはあったが、今日は痰が絡んだ咳が止まらない。お腹も下している。
風邪にかかったと思い、カフェーに仕事を休む旨の連絡を入れた。
全身で感じる倦怠感。咳は嗚咽が混じるくらいにひどくなっていて、とにかく苦しかった。
医師に来てもらうと、結核だろうとのこと。
何日か耐えたある日の夜、血が混じった痰が出て、そのあと吐血が止まらなくなった。
お鈴は日にちの感覚すら失っていた。
腕をふと見つめると骨と真っ白な皮ばかりで、それでも尚、誠治の顔を見たいと願った。
誠治は現れないまま。
夢のようなひとときが染み付いた布団の上で、お鈴の命は尽きたのである。