「生まれるまえに、生きていた」 act.001(2007年)
「アルプスに咲く花」 20代前半 女子
私は花。
幼少期の記憶はない。いつのまにか、この薄紫の花びらを湛えていた。
自分の姿を見たことはないけれど、まわりのみんながそうなんだからそうなんだろう。
目の前には、草原の丘が幾重にも連なっていて、それを切立った岩のような高い山が囲んでいる風景。
時に、それは鮮明でまぶしかったり、ぼやけて哀しそうだったりする。
私は自分で身体を動かせない。
なぜか意識を持ち始めてから程なくして、自分も目の前に広がる景色の一部だと知った。
「ゼラニウムがたくさん咲いているわ。すてき!」
いつもバカみたいに裸足で駆け回っている、寝癖が印象的な女の子の言葉だった。
ゼラニウム。
たぶん、そうなんだろう。
私のプロフィールは、ゼラニウムという花。それだけ。
そしてきっと、そんなに長い命ではない。花だし。
女の子の住む山小屋には、白いひげのおじいさんとでかい犬、そして山羊も暮らしているようだ。
時々、たくさんの山羊を引き連れた少年がやってくるから、気が気じゃない。
私は、いつ誰に踏まれて命を落とすか知れない。
どうせなら朽ち果てるまで天寿を全うしたいと、こっそり思っているのに。
一度、でかい犬が私に接近してきたことがあった。
私の方を見つめ、ゆっくりと忍び寄ってきて、私の首もとめがけて口を大きく開いたのだ。
死ぬ直前には、走馬灯のように思い出が駆け巡ると言うけれど、
そういえば駆け巡るような思い出もそんなにあるわけないのだった。
所詮、私は花だから。
犬の牙は私の首もとをかすめ、足下のカタツムリを捕えた。
私はドクドクと波打つ葉脈を感じながら、走馬灯の代わりに古い記憶が過ぎったのを認めた。
きっと、ここではないどこかで、私が生きていた頃の記憶。
視界を遮るほどに、薄桃色の仲間たちが咲き誇る。
それはどことなく、今の私たち「ゼラニウム」のかたちに似ていた。
大きくてたくましい木の上に私は生きていた。
仲間たちの花びらが落ちて、静かな水面を埋め尽くす。
私も、自分の欠片が痛みもなく落ちていくのを感じていた。
身体がの一部が捥がれているというのに、なんて美しい光景なんだろう。
花びらをすべて失った私は、堅く醜い芽になって、途方もない数の夜を越える。
また美しい光景に出会える日まで、じっと。
犬はバリバリと音を立ててカタツムリの味を堪能していた。
その横で何かを私が悟ろうとしているなんて思いもしないだろう。
命の終わりに怯える今日と、一瞬のために生き続ける昔と。
どちらもそれなりに幸せで、不幸な気がしている。
あの女の子のように脚を持って生まれて走り回れるとしても、
やっぱり幸せで、不幸なんだろうか。