短編妄想作文
「彩丘に待つ」2006年
丘の色は変わる。
ここには春がきて、暑い夏がきて、秋がきて、長い冬がくるから仕方ない。
この丘の彩りをまじまじと見つめたのは初めてではないだろうか。
人が息を潜めるような冬はただ真っ白な丘が、夏はなんてつぎはぎだらけで滑稽なものなのだろう。
つぎはぎの中で、蟻のような人影が点々とうごめいている。きっと、畑に出ている時は私もこんな風に見えるのだろう。
ガタガタと音を立てる馬車に乗りながら、マサは思った。この町に嫁いできてからというもの、景色を観て思いに耽る余裕なんてなかったような気がする。
「夏の真っ只中に餅つくっつうのも、なんだかね」
隣家に住むサダはいつもと変わらぬ明るい声を出して、風呂敷包みを豪快に叩いた。中にはまだ温かい餅と、炒った大豆がたくさん入っている。
「三ヶ月で帰ってくるっちゅうのに、大げさなんでねえの」
「でもそのまま本隊に取られることもあるちゅう話だし」
一番弱気なのは、サダの妹のカツエだ。カツエは結婚して日が浅く、若かった。そんな時に夫が急に居なくなる事に居た堪れなくなるのも当然だろう。
三人は、教育召集で旭川へ行った夫に面会に行くのである。
教育召集は三ヶ月で戻って来れるとは聞いているが、同じ部落の中から先に召集された者が、そのまま帰ってこないという例もあった。
マサの夫である優実の元に、教育召集の白い紙が届いたのが一カ月前。優実と、サダの夫、カツエの夫の三人は、部落から一里離れた「万歳峠」で町の皆に見送られ、同じ日に旅立った。
夏の暑い日だった。三人は、あの日と同じ着物で正装していた。
いつからか万歳峠と呼ばれるようになった峠は、皮肉にも町の丘全体を見渡せる唯一の場所だ。
「まだ分家して二ヶ月しかたっとらんのに、あんまりだ」
馬車の上で、何度もカツエがそう呟く。マサは、自分が分家した頃のことを思い返していた。
結婚して半年で大家族から分家した。思えば実家も大家族で、誰かは必ず傍に居たのだった。それが、ごく無口な優実と広い平屋で急に二人きりになって、マサは淋しくて仕方なかった。
二人きりの畑仕事も、優実は無駄口をきかず黙々とこなした。優実は夜に実家に戻って兄弟たちと過ごすことが多く、独り家に残されたマサは眠れずに縫い物などをして夜を過ごした。
子供が生まれてからは優実はわりと家に居るようになったが、家族団欒もそこそこにランプの乏しい灯りで長い時間をかけて日記をつけているような塩梅だった。
「淋しいわな。カツエのとこのは、気のいい男だもの。うちのなんかはもーう酒飲みで。あんなんに兵隊なんか勤まると思えん」
サダはいつも以上に明るく、カツエを慰めているように見えた。カツエの頬が緩むのが分かって、マサは安心した。
「マサさんとこのは、賢くて堅い人だべ。きっと真面目にやりよるよ」
マサは頷いて、日記はまだつけているだろうか、とふと思った。何となく優実の机には近づかないようにしていて、日記帳を持っていったのかも分からないのだった。
日差しが傾きかけて来た頃、駅のある町が見えてきた。
「すごい人だわぁ」
サダが一際大きな声で笑いながら言った。
「やっぱり今日中には汽車乗れねえかもな」
駅は人でごった返していた。ほとんどが兵役に向かう者、その見送りの家族だろう。
マサたちは、悲壮な顔になりそうなのを堪えた。所々から聞こえる「万歳」の声の裏に、みんな同じ所在無い気持ちを隠してることを悟っていた。
マサは今朝、子供たちを優実の実家に預けに行った。正装している母親の姿に不安げな表情を見せる七歳の長女に、マサは目線の高さを合わせて気丈に言った。
「そんな顔したらいかん」
同じ言葉を、自分にも言い聞かせたつもりだった。
結局、三人は駅で一夜を明かすことになった。持ってきた薄い麻布を尻に敷き、座ったまま三人で寄り添い、浅い眠りに就いた。
まだ二十歳のカツエは、子供みたいにサダの手を強く握り締めていた。
次の朝、すし詰め状態の汽車にやっと乗ることが出来た三人は、軍地のある旭川へ到着した。
「カツエ、おもしろい顔になっとるよ」
サダが笑う。カツエだけではない。みんなすすだらけになり、湿らせた手ぬぐいで顔と手を拭った。
「お、みんな歩って行きよる」
大きな橋のある方向に、人の列が続いていた。マサは餅を背負い直した。長年農作業をやってきたから、足腰には自信があった。
橋を渡る。汽車を降りてからも聴こえた「万歳」の歓声は、橋を過ぎた途端に聞こえなくなり、その代わりに物騒な音が響いていた。初めて耳にする機械音だ。
「奥さんたち諦めなさい。私は会えなかったよ」
引き返す人の中から、何度もこんな遣り取りが聞こえ、三人は顔を見合わせた。
「どうする?」
「ここまで来たんだ。行ってみるべ。どっちみち右も左もわからん」
サダの意気込みに押され、三人は軍の敷地内に入って行った。
気高く建つ白い建物を前に、人が溢れていた。そこらを通りかかる軍人と押し問答を繰り広げる者たちの喧騒に、三人は圧倒された。「ああやってれば会えるかも知れんね」
サダは早速、あたりを真似して適当な軍人を捜しに行った。
マサとカツエも後に続いた。
「陣野優実っつう名前の者と会えませんか」
マサは会えることを信じた。
何人もの軍人に同じように尋ねて回った。もしかしたら同じ人に何回も聞いているかもしれない。完全に喧騒に溶け込んでいた。
鬱陶しそうにあしらう軍人が殆どで、マサはそれでも諦めなかった。いや、マサよりも鬼気迫る物言いの者のほうが、圧倒的に周りに多いのだ。
「申し訳ありませんが、今は会えないと思いますよ」
ある若い軍人が、申し訳なさそうに言った。
その物言いがあまりに穏やかで、マサは急に気が抜けた。
「ええ、すいません。これ、よければ皆さんでお分け下さい」
マサはその青年に、背負っていた風呂敷包みを手渡した。
そのまま青年の顔を見ずに、マサは喧騒から抜け出した。
サダもカツエも、落胆して戻ってきた。
「だめだわ。マサさんもか?」
「うん。餅と豆はそこらの兵隊さんにやってきた」
「わちらもそうするべ。したら、行き渡るかも知れね」
橋へと引き返す者たちは、皆同じ思いを抱えて妙に静かだった。空から聞こえる物騒な音が耳障りだった。マサは初めて「戦争」が身に纏わりついたような感覚だった。
平和な部落ん中で、丘登って畑耕して、馬の世話して、なんも昔と変わらん。物が配給になってそれがどんどん減ってっても、昔と同じに毎日畑耕すもんだから、戦争がどんなおっかないことか、はっきり分からんかった。けど、あの人はいま、あの音の中に四六時中居てどんなに怖いだろう。
甘たるい思い出はもう思い出せんし、これからも期待はせん。ただ黙々と畑を耕すあの人の背中がいつも目にはいるっちゅう普通の日々がまた戻って来たらいい。
帰りの汽車の中、さすがのサダも口数が減っていた。
「うちのにはもう会えない気がすんね…」
サダの寂しそうな呟きだったが、周りの同じような空気のせいか、それほど痛々しくはならずに溶けていった。
丘で子供たちが駆け回っている。
マサは、その声を遠くに聞きながら、馬の餌となる燕麦を見繕っていた。
コオロギの鳴声がちらほら聞こえ始め、背の低い稲穂を傾いた陽が照らしていた。
マサは陽でチカチカした目を、ふと丘の上から伸びる道に向けた。
万歳峠で見送った時と同じ、背広姿の優実が歩いてくる。
幻かと、一瞬思った。
「お父ちゃん!」
長女が駆け寄る。
優実は、あまり見せない笑みを浮かべた。
「おかえりなさい。…帰ってきたんやね」
「ああ。目が悪うて。本隊には行けん」
夜な夜な日記も書くもんだわ、とマサは少し可笑しくなった。
「稲刈りどうしようかと思ってたんよ」
優実は、黄色く色付いた田んぼの方に目をやり、複雑な表情を浮かべた。
「みんな本隊に…。サダさんたちとこも稲刈ってやらんといけん」
マサはサダの帰りの汽車での言葉、カツエの不安げな顔を思い出し、胸が痛くなった。
「サダさん、よう勘が働いたもんだなぁ」
「兵隊つうもんは、仕方ねえことばかりだ」
優実の表情に、明らかな負い目の気が見て取れた。
マサはそれを察して、明るい声で言った。
「あんたいっぱい働かんといかんね。みんなのぶん。みんな帰ってくるまで」
あんたはなんも喋らんで畑に腰落としてる姿がいちばん似合っとる。
それは口に出してないが、マサにはちゃんと優実に伝わった気がした。
解説は
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