「ピース・オブ・アップルパイ」
第一回
2つ目の駅で人がたくさん乗り込んで、3つ目の駅で人がたくさん降りて行った。
目指すのは5つ目の駅で、あたしはまるで戦場に行くような顔つき、きっと。
地下鉄の人混みは、異様に無機質に思える。
誰もが何も抱えていないような、自分だけが脳みそをもっているような。
そういえば、田舎から出てきたばかりの頃は、人混みでの他人の会話を盗み聴くのが楽しかったりした。十代だったし、まだ全くの他人の人生にまで興味があったんだった。
でも、もうそんな気にはなれない。他人からしたら、あたしだって無機質なモノだ。
また今日もタカオは、あの古いアパートのたよりないドアを開けて、悪そうな顔で笑うのだろう。
それを考えるのが、たまらなく幸せだった。
あたしの脳みそは自由すぎるから、その顔を思い出すだけで、一気にハッピーエンドまで達してしまう。
会いに行くのは少し勇気がいる。タカオの仕草や言葉ひとつで崩壊しかねないから。
駅前のコンビニで、発泡酒と安い赤ワインを買った。
お酒の入ったタカオは、たくさん笑ってくれるから、いい。
タカオはあたしの親友であるキョウちゃんの恋人で、でもキョウちゃんはもう傍にはいない。キョウちゃんとタカオは、この古い2DKで1年間一緒に暮らしていて、そりゃあもう幸せそうだった。
あたしとキョウちゃんは高校生の時、色めいていく周りのアウトサイドで駆け回っていた仲だ。
哲学や宇宙やサブカルチャーな話をいっぱいして、わざと周りとちがう風に盛り上がってたまま3年間を乗り切った。若いうちにネームバリューが欲しいという焦燥感さえも、なんとなく誇らしかった。
「早紀ちゃん、キョウから手紙が来たんだけど、見る?」
「あ、ほんと。見たい見たい」
キョウちゃんは、イギリスにいるらしい。たまに届く手紙には、写真が必ず入っている。今回は、無彩の色調が美しい路地の写真が何枚かと、スタンフォード・ブリッジを背景に、頭悪そうなフェイスペイントをした白人青年の写真が入っていた。キョウちゃんの姿は、また写ってない。
けれど、手紙はちゃんとキョウちゃんの字で、長々と旅のエピソードが書かれている。あたしたちは、それをいつも楽しみにしているフリを、お互いにしている。
『コイツ、石油王の跡取りだとかゆって求婚してきたんだけど、絶対嘘だと思った。靴がもうボロッボロだったもん。危険がいっぱい!』
『電圧が違くてiPodの充電がしばらく出来ないんだけどどうしよう。エレカシ聴きたい。ミヤジは元気してる?』
『最近、豆しか食ってない。イギリスって豆しかなのかな?ビートルズって豆なのかな?』
こんな調子の手紙が届くたびに、あたしたちはキョウちゃんの事を必死で「過去」にならないようにしてる。タカオはどんなに酔っ払っても、絶対に寂しいとは言わない。あたしにとっては、それが苦しい。
当然、あたしはタカオの寂しさの隙に入り込もうと思っているから。
高校を卒業して、あたしとキョウちゃんは地元からJRで2時間の札幌に出た。
あたしは何となく服飾の専門学校に進学して、キョウちゃんは保育士の短大に進学した。
最初の頃は、札幌に出た地元の友達が他に何人かいたけど、みんなに恋人ができて、サークルとか入っちゃって、一方あたしは何処にも馴染めなくて、専門学校を2ヶ月で中退して、中途半端に札幌にぶら下がってる「底辺」の時這いずりまわっていた。
親からさえも蔑まれたあたしに、それでもまだ付き合ってくれたのはキョウちゃんだけだった。
そしてバイトで食い繋いでるうちに、2年が経った。
キョウちゃんはその間に何とか短大を卒業して、24時間営業の無認可保育所で働き始めた。
そのうちキョウちゃんに人生初の彼氏が出来た。
それがタカオだった。
二人の出会いは、素敵過ぎる寂れ具合のぼったくることしか考えてないようなパチンコ屋。二人とも史上最高に散財している最中、キョウちゃんが普段吸わない煙草を隣の台に座っていたタカオにせびったらしい。
ダメさ100%の出会いは二人にぴったりで、なんか格好良くて嫉妬した。
3人でよく遊ぶようになった。
ふたりがベタベタしないのが救いだった。
タカオは何だか謎だらけな人だった。
フリーのウェブデザイナーだと自称してはいるが、それすらも本当か嘘か分からない。時々マックに向かっているものの、あたしがモニタを覗くといつもエロ動画収集の最中だった。性欲なさそうな顔してるけど。
スペイン料理屋でバイトしてるから、実際はただのフリーターだと思う。
ただ、ものすごいあたしのタイプの男であることは違いなかった。
その時は恋愛感情なんてなくて、だけど「これ以上この人のことを知っちゃったらやばい」と漠然と思った。
彼氏がダメな感じで見た目の良い男だと、ついつい尽くしまくってしまうのが普通の女だろうと思う。
けれどキョウちゃんの場合、同棲は始めたものの全く「男に尽くす」という観念は見られなかった。
空いている時間は必ずタカオのパチンコに付き合っていたのが唯一の「尽くし」の風景だった。
キョウちゃんもパチンコが大好きだから、何とも言えないけれど。
キョウちゃんは、ありえないシフトで保育所で真っ当に勤め上げ、まず「超奥」というタイトルの、パチンコで絶対に負けない法則が記してあるという如何わしい本を15万円で購入した。
けれど本当にそれからは負け知らずで、キョウちゃんは勝ち金をコツコツ貯金していた。
酔っ払ったノリでモンゴルの銀行に口座を作ったりするくらい、貯金が膨れ上がった頃。
「世界一ゆるいバックパッカーになる」と言ってキョウちゃんはあっけなく旅立った。
夏の始まりの日で、本当に突然行ってしまった。
そして、なぜか「超奥」を持っていった。必要ないだろうに。
その時、あたしたちは23歳になっていて、タカオに至っては27歳になっていて、まだデザイナーとか言い張っていた。
「いいなー。スタンフォード・ブリッジ」
「なんでサッカー好きの俺たちを逆撫でするような写真送って来るんだよ」
「でも、もう寒いよね。イギリスは」
ビールは、なくなった。
赤ワインを開けて、ちびちびとふたりで飲む。
あたしは本当にゆっくりと、ワインを飲んでいた。なくなったら帰らなきゃいけなくなる。
煙草も、ゆっくり吸った。これも一箱なくなってしまったら、帰らなきゃいけない気がする。
「早紀ちゃん。髪切ってくんない?」
タカオの髪は随分伸びた。ひどい癖毛の前髪が、鼻先で揺れている。
「やだよ。なんで」
「トリマーの学校行ってたんじゃなかったっけ?」
「行ってないし、トリマーって動物の毛切るひとでしょ?」
タカオは笑う。いつもは人を見下したような冷たい目をしているから、笑うと嬉しくてたまらない。
「キョウちゃん行ってからもう半年たつね」
話題に困ると繰り返されたキョウちゃんの話の時も、タカオは笑っていた。
「キョウ居ないとヒマだな。パチンコ勝てないし」
「タカオ友達いないの?あたしとばっか飲んでるんじゃない」
「やーなんかこの年になると友達みんなちゃんとしてっから、構ってくれねえよ」
「ああー、スーツぱっきり着てるような」
「どっちかっていうとそんな奴のほうが狂ってるよな。スーツぱっくりなほうが」
「ぱっくるでしょ?あれ、ぱっきり?」
「…酔っ払ってんの早紀ちゃん」
「タカオに言われたくないんだけど」
そんな調子のうちに、ワインはなくなった。
「ワインなくなった」
「まじ。帰んの?」
帰らなきゃ。まだ走れば終電に間に合う。神様のくれたグッドタイミングだかバッドタイミングだか。
タカオが何故かにやっと笑って、玄関の方に行った。
「店でもらったやつ。非常酒」
片手に赤ワインを持ってきて、また笑う。
あたしは、キュンとした笑みをひた隠しにして、ぶっきらぼうに返した。
「はいはい。あたしもう飲めないし、今なら終電間に合うし」
嘘ついた。タカオと飲むお酒は酔っ払わない。
どん底に落とされないように、ずっと気が張りまくってるから。
「俺はまだ飲めるし、まだあの話してないし」
「真似しないでよ。可愛くないし。あの話ってなんですか」
「宇宙と古代深海魚にまつわるすげえ話」
場末のシャンデリアはヤニ汚れを介して、琥珀色の光をねっとりと放ち続けている。
「具合は悪そうだけど気分は良さそうね」
静香ママがマルボロライトを揉み消しながら言った。
毎度のことながら、静香ママの逞しくも細い腕に浮き上がる血管は惚れ惚れする。
結局、昨日はタカオのスケールだけは大きい話に延々付き合わされ、限界になって始発直前にタクシーで帰った。
自分の煙草が無くなってからタカオのセブンスターを吸っていたせいで、強いニコチン効果で腹痛をもよおして一日中トイレに篭もってた。
だけどタカオの匂いが身体中にこびりついたような気がして、それすら嬉しく思えた。
そんなわけで、一睡も出来ないままバイト先のスナック「葉月」にきっちり出勤した。
「ちょっと嬉しかったです。タカオがね。ワインをもう一本持ってきたんですよ」
「ワイン?早紀ちゃん、まだ酔っ払ってるみたいね。髪お願いできる?」
静香ママは笑みを浮かべて、ヘアアイロンをあたしに渡す。
あたしのいる週末、静香ママはお化粧をして着飾る。あたしは静香ママの髪をグリングリンに巻く。
「それで昨日は、おちんちんくらい触ったの?」
「ママ、そればっかり。触りません、一生」
「あんたみたいなのが若い女で一番めんどくさいわ。触ったもん勝ちよ、こうゆうときは」
ママのきつい言葉を、あたしは微笑みながら聞いていた。
首筋にまた、見惚れる。
静香ママはもう40歳近いとは言え、男性の時はほんとにカッコいい。
あたしが「葉月」でバイトを始めてから、半年になる。
昼間のパソコンオペレーターの仕事にも慣れてきた頃、前にバイトしていた居酒屋の先輩に「葉月」に初めて連れて来られた。
静香ママの抜群な良い男っぷりと、話の楽しさにすっかり虜になった。自宅も近かったこともあり、あたしは「葉月」に通うようになった。
「葉月」はカウンターがU字になった小さな店で、静香ママが一人で切り盛りしていた。
静香ママは昼間、小さな広告代理店で男としてバリバリに営業の仕事に就いていた。
「葉月」の営業は「オカマの道楽」とは言いつつ、体力的にきついらしい。けれど店への思い入れが強いことは、酔っ払った静香ママがいつも語っていた。
店に通いつめて静香ママが尊敬する大人の一人にまでなっていたあたしは、週末の店の手伝いを申し出た。
静香ママは「嬉しい!」と可愛らしく小躍りして、あたしの「葉月」でのバイトが始まった。
あたしも嬉しかった。「葉月」にいる時間は、楽しくて充実していて、気持ちよく酔っ払えたのだ。
「今日ね、最後に回った営業先でもらっちゃった。直帰だったから早紀ちゃんと食べようと思って」
「わー!アップルパイ!」
「美味しそうでしょ〜?作り方も聞いてきちゃった」
「…そんなに好きじゃない」
「かわいくないわね〜。女の子ならスイーツにときめきなさいよ」
「そうゆうところがダメだって言うんでしょ?ママはまた」
「あは。わかってるじゃない。そんなんじゃいつまで経っても女として私より下よ。いいから食べましょうよ」
静香ママは、アップルパイを切って、ウイスキーの水割りも作った。
「美味しい!ウイスキーに合う!ふしぎー」
「今の、美味しい!は可愛かったわよ。ウイスキーに合うかどうかは別として」
「ママがウイスキー出したんじゃないですか」
「あとでレシピのメモ写してあげるから、彼にでも作ってあげたらいいわ」
その時、お客さんがドアを開けて入ってきた。常連さんだった。
「なに二人して食べてるの〜?適当な店だなー」
「いらっしゃいませ〜。今日のお通しはこれだけど、いいかしら?」
その夜は常連客ばかりで、静香ママがキラキラした衣装で「壊れかけのレディオ」を熱唱したりして、店は酒臭い笑いに溢れかえった。
あたしは眠気と酒気に耐えながらの皿洗いの合間に、タカオにメールした。
『なにしてるの?』
しばらく経っても、タカオからの返事はない。
トボトボしながらホールに出て行くと、何か歌えと促されたので、「ベサメムーチョ」を客の変な合いの手付きでヤケクソ気味に歌った。
頭の中は、タカオのことでいっぱい。
毎日毎週毎月、こんな繰り返しだけど、心が乾いたり満ちたりするのはタカオのこと考えてるときだけ。
『まれにみるふつかよいで具合悪い。早紀ちゃん酒になんか入れた?』
まれにみるふつかよい。
あたしは少し笑って、携帯電話を閉じた。