les spacey espacent日本人がカキモノ公開中

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2013.03.06 Wednesday ... - / -
#儀式の意味
今日は曾祖母の四十九日法要。

「納骨」という儀式を初めて体験した。

自宅で祭壇に経を上げたあと
骨壷を持ってお墓に行き、さらしで作った袋に遺骨を移し入れる。
墓石を開けて、遺骨を中に納める。
一般的なお釈迦様の宗教だと、お墓を持っている場合はこうするらしい。

墓石を開けたのは初めてだった。
中では先祖や祖父の遺骨が、土に還りつつあって
本当に、人は土に還って行くんだと思った。

子供のころはひどく退屈だと思っていた弔いの儀式。
もちろんだけど、ちゃんと意味がある。

四十九日の間、残された人間はきちんと「生と死」の意味を考えなければならないらしい。
残念ながらこんな時にしか信仰心は生まれないので、難しいことはわからない。
けれど、儀式の間はとにかく何度も「さようなら」をすることを改めて知った。

亡くなった直後に「さようなら」
納棺のときに「さようなら」
出棺のときに「さようなら」
火葬のときに「さようなら」
納骨のときに「さようなら」

肉体に、魂に、それぞれの哀しみに。
お経の意味はわからなくても、きっとそれが供養というものなのだろう。

今日、曾祖母は「あの世」に着いて、生まれ変わる準備をするようだ。
歩くのが早いから、きっとちゃんと着いただろう。

遺骨はきちんと、旦那様と同じ場所に還るようにした。
遺影もきちんと、ふたりぼっちになるように並べた。

最後の「さようなら」は届いただろうか。
2009.11.15 Sunday ... comments(0) / trackbacks(0)
#ありがとう
9月28日昼
癌で闘病中の曾祖母が危篤だという連絡が入った。
「すぐにどうということもないだろう」ということだったので
私は仕事を終わるのを待って、
着の身着のまま20時の汽車に乗る。

デッキで弟に連絡を入れた。
弟は、泣きじゃくっていて、何を言っているのかさっぱりわからなかった。
私は、そのまま2時間、号泣し続けた。

駅に迎えに来ていた大叔父に、曾祖母の死を知らされた。
亡くなったのは、20時5分だった。
病院の面会時間が終わり、多くの見舞い客が帰った直後。
家族だけになってほっとしたのか、静かに呼吸を止めたらしい。

20時。
家に着くともうたくさんの人たちがいて、
私の顔を見た弟が、また号泣した。
ふたりでしばらく泣いた。
祖母の遺体を、見たくも触りたくも無かった。
まだ少し血色がよくて、ただ寝ているだけに思えた。

次の日に急遽通夜をやることになり、父は朝まで葬儀の準備に追われた。
経歴紹介の原稿をまとめながら、
曾祖母に昔の話をもっと聞いておくべきだったと、みんなが口々に言う。

私たち家族は、1ヶ月前に曾祖母が入院した時から覚悟はできているつもりだった。
癌という病気は厄介で、調子が良かったり悪かったりする。
余命申告なんか当てにならなくて、
全身に癌が広がっていた曾祖母にも、つい先日、外泊許可が出ていた。
祖母がそれを聞き、部屋を掃除した途端に、
またご飯が食べられなくなって、点滴で腕を腫らす生活になった。

私が最後に曾祖母に会ったのは、9月21日。
体調は悪いみたいだったけど、ニコニコと手を振って出迎えてくれた。
曾祖母は、札幌に戻る私に「気をつけて」と言った。
「また10月に来るからね」と私は言ったと思う。

結局、一睡も出来なかった通夜の日。
次の日には、町内に連絡が行き、たくさんの人が弔問に訪れた。
みんなは「急すぎる」と言う。
94歳の死には、似つかわしくない言葉かもしれないけれど、
入院するまで旅行に行って、デイサービスに行って、
晴れた日は草とりをしていた、元気な曾祖母の死は確かに「急」だった。

曾祖母は、弱さを見せるのが嫌いで
頑固で気が強く、とんでもなく人にやさしかった。

家族以外の見舞い客には、元気な姿しか見せなかった。
「もうすぐ家に帰れる」とまで言っていたらしい。
亡くなる直前までオムツを嫌がったらしい。
その性格のせいで、末期癌なんかになってしまったんだと思う。

30代で、12才から1才の子どもを3人抱えて母子家庭。
しかも貧乏農家。
優良母子家庭とやらで表彰もされている。
弱音を溢す暇や余裕などなかったのだろう。

納棺の時。
私はやっと、曾祖母が本当に亡くなったことを実感した。
どこを触っても冷たい身体を、ゆっくりと拭いた。
真っ白な肌だったけど、膝には大きく茶色の痣があって、
一緒に座りながら草とりをしていた曾祖母の妹が、撫でながら泣いていた。

私は花札の光物を選んで、手に持たせてやろうと思った。
曾祖母のいちばん好きだった絵柄をみんなで選んで。
組んだ手にしっかりと収まったので、ちょっと笑えた。
棺に被せられたのは、あのギンギラギンのやつじゃなくてピンクの可愛らしい布。
遺影は3年前の家族写真から。すごく良い笑顔だった。

通夜も終わり、宴会を抜け出して
葬儀で弟が読む弔辞をまとめるために家へ帰った。
また泣きながら書いたという弟のメモは、子どもみたいに小さな思い出が綴られていた。
ライターとして、弔辞を書くなんて滅多にないことだと思うけど、できれば一生やりたくない。
そんなことを思いながら、また私は泣いた。

葬儀というのが久しぶりだったけど、すごくあっけなかったように思う。
ついに祖母の遺体は焼かれて、骨だけになった。
太くてたくましい骨だった。
普通は骨以外はキレイに燃え尽きるのだけど、
頭蓋骨に少しだけ、黒く焼けた脳がこびりついていて、
どれだけ頑固頭なんだと、みんなが笑った。

確かに、頑固だった面はあるけど、私や弟にとってはひたすら優しい人だった。
最後まで私のことを気にかけてくれたのに、何も返せなかったことはすごく後悔している。
これから、曾祖母と同じように、一生懸命生きていきたい。

私は3年前に、曾祖母が幸せだったであろう頃のお話を書いた。
きっと今ごろ曾祖母は、
愛する夫と60年ぶりの再会に向けて、わくわくしながら歩いているのだろう。
94歳の曾祖母を見て、曽祖父は何て言うのだろうか。

「久しぶり。今までおつかれさま」って言ってあげてほしいな。


短編妄想作文 「彩丘に待つ」
2009.10.04 Sunday ... comments(4) / trackbacks(0)
#カッコイイ女検定2009・模範解答
カッコイイ女検定2009

自虐的模範解答をご覧ください。



スタート↓
続きを読む >>
2009.07.21 Tuesday ... comments(0) / trackbacks(0)
#カッコイイ女検定2009
2007年にノリで作ったカッコイイ女検定です。
UP先サーバーのサービス終了に伴い、再UPします。

全100問。

長いですけど、
いちいち文で答えることを推奨します。

自分を見つめなおしてみたい、特にR25の女性にオススメの企画です。
ぜひ遊んでいってください。



それでは、スタート ↓

続きを読む >>
2009.07.19 Sunday ... comments(0) / trackbacks(0)
#「錆びついた夢」 あとがき
「錆びついた夢」は、ビジネス小説のつもりで書きました。

私はまだ子どもなのか、「会社」というものが面白くて、
いつかその世界を書いてみたいと思っていました。
そこへ、会社の人がちょうど、ウルトラセブンの「メトロン星人」の話をしてくれたのです。
リアルタイムではないので今回初めて見たのですが、
この映像は、前衛的で超カッコよかったです。
無駄と思われるカットはやたら多いわ、メインの戦闘シーンは一瞬で終わるわ。
だいたい、正義のヒーローと敵がちゃぶ台囲んで会話するなんて、
後にも先にもこれくらいでしょう。
・・・と、思ったら、監督はやはり実相寺監督でした。

地球滅亡計画にも、必ず企画会議があって、プレゼンがあって、
あーだこーだ言ってるはずだ、ということで、
その背景を会社に置き換えて書くことにしたのです。

書き終えて、こーゆーのなんぼでもいけるわ!と思っています。

もしよければ、感想・お叱りなど、ご意見をいただけると幸いです。

感想はこちら
本編はこちら
2009.05.31 Sunday ... comments(0) / trackbacks(0)
#才能に憧れた頃
もうすぐ24歳になろうとしているのに、
自分には何の才能が備わっているのだろうかと日々悩む。
脳内メーカーをやったら、「悩」という字で埋め尽くされたもんだから、これも仕方ない。

今日のお話は才能にまつわる「母、人生最大の後悔の話」。

それはあたしが3才の頃、保育園入園時に起きた事件。
お祝いに母方の祖母から買ってもらったキティーちゃんの真新しいカバンをぶら下げ、父方の祖母にヘルメット頭に髪をカットされて、保育園に通い始めた。
とは言っても、同級生は4人で生まれたときから知っているので気楽なものである。
あたしは保育園が楽しかったらしい。
大好きなおえかきの時間があって、美味しいおやつがでる。
だって家ではお茶漬けばかり食わされていたから。

るんるんで保育園に通って3日目、
あたしは何を思ったかカバンのキティーちゃんに、油性マジックでメガネを描いた。

今考えると、キティーちゃんの顔は淡白なので、何か付け足さずには居られなかったのだろう。

それをニコニコしながら母に見せたところ、母、絶叫。
当然でしょうよ。
後に母が言うには、今まで生きてきて後にも先にもあれほど怒り狂ったことはないと。
あたしをこてんぱんに叱り付け、泣きながらメガネを拭き消したらしい母。
それでも完全には消えず、うっすらメガネのキティーちゃんカバンをぶら下げたままあたしは保育園に通った。

それほどまでの衝撃体験を、母は今になってこう語る。
「あの時は動揺してて気がつかなかったけど、3才児が描いたと思えないくらいメガネが上手に描けてた。それを怒らずに褒めて、その才能を伸ばしてあげればよかったのに…。失敗したわ。」

母がさらっと子育て失敗をカミングアウト。
いやいやしかし、それは誰だって怒るよって。
桜の木を折って褒められたような人は確か超偉人だったっけ。自分には荷が重過ぎる。

でも、あの時カバンのじゃないキティーちゃんにメガネを描いて、その時褒められていたら、絵描きさんになってたかも知れない。

どうやら、幼少期からボタンを掛け違えてばかりだったようだね。
2007.09.07 Friday ... comments(0) / trackbacks(0)
#十七の時の会話
教卓のところで放課後、友人とあたしはこんな会話を繰り広げていたらしい。

「アナルの『ル』って一体何なんだろうね?」
「穴でいいじゃんね」

記憶にはさらさらないけれど、
今しがた別の友人が教えてくれて、とても面白かったのでした。
2007.09.03 Monday ... comments(0) / trackbacks(0)
#「彩丘に待つ」解説
「彩丘に待つ」解説


舞台は美しい丘陵地帯。
本当に美しいと景色だと思う。
夏。ジャガイモの花の白色と、菜の花の黄色が混じった丘の景色は、
絵の具でも写真でも、言葉でも上手く伝えられない。
それくらい、私はあの景色が美しいと思う。

かつて100以上の世帯が農業を営んでいたこの町も、今では農家は十数件。
私は、そんな究極にシンプルな町で生まれ育った。

今も実家には四世代が同居し、農家を営んでいる。
一家の長であった「愛實(なるみ)」という名の曽祖父は、私が生まれるずっと昔に他界していた。
どんな人だったのかは、今まで聞いたことも無かった。
ただずっと仏壇の上から見下ろす、若い男性の肖像画。
それが曽祖父ということだけ知っていた。

今年、町の開基100周年記念誌に曾祖母が寄稿することになった。
ただ、94歳の曾祖母は長い文章を書くなんてやったことが無い。
そこで、長い正月休みで帰省していた私が話を聞き、文章に起すことになった。
 
曾祖母は身体も元気だが、脳も元気である。
こっちが驚くほどに、年月と出来事をキレイに並べて昔のことを語りだした。
 
大正5年、関西地方からの入植者の家に長女として生まれる。実家はこの町から4里ほどの隣町。
昭和12年、この町に嫁いでくる。翌年、分家して夫・愛實と二人暮しに。それから、長女(私の祖母)が生まれ、その後、三女一男に恵まれる。
昭和18年、夫が教育召集で出征。3ヵ月の兵役後、無事に帰宅する。
昭和25年、結核で夫が死去。親戚に奉公人を頼み、農業を営みながら生活する。
昭和34年、奉公に来ていた夫の甥(祖父)と長女(祖母)が結婚。まもなく、子供が生まれる(父)。

昭和58年に、ひ孫にあたる私が生まれた。
家族が仕事に出ている間、曾祖母はまだ赤ちゃんだった私の子守り役だった。
曾祖母の妹家族と共同農場を営んでいるので、私の幼馴染にあたる3人の面倒も見ていたらしい。
その少し後から、私の記憶が始まる。すでに曾祖母は老人だった。

話を聞いて、素直に偉大だと思った。
想像もつかない哀しみや貧しさに身を委ねて生きてきている。
それを誰にもひけらかすことなく、ただ毎日を生きていることが素晴らしい。

そして、寄稿文章には直接関係しないが、私が一番聞きたかったのは、曽祖父のことだ。
曾祖母は、再び話し始めた。

農業の傍ら、今の大学に値する学校を卒業していた曽祖父は、物書きが好きだったらしい。
毎晩机の前で正座し、子供が寄って行くと怒鳴り散らすほど熱心に日記をつけていた。
性格はくそ真面目で、無口だったという。
でもちょっと少年のような悪戯をすることがあった。
悪戯好きな祖父や祖父の兄弟を見てきた私には、その光景だけがイメージできた。

教育召集は3ヵ月限定の徴兵だが、終戦直前のその頃はそのまま戦地へ行かされた者が多かったと聞いた。
当時の町内でも、戦死者が思った以上に多かったことを聞き驚いた。
曽祖父が3ヵ月で帰ってこれた理由は、はっきりわからないらしい。
ただ、肖像画でメガネをかけていることから、視力が極端に悪かったのだと推測した。

「帰ってきたのがちょうど稲刈りの時期だったから助かった」

曾祖母は、何回もそう言った。


私が今、こんな風に曾祖母の話を聞き、こんな短編小説を書いたのには、見えない理由があるのだろうと思う。

生まれて、自分で作ったものを食べて生き、子孫を残して、死んでゆくというシンプルな人生。

家を出て行くときに曾祖母が言った「いつでも戻ってきなさい」という言葉を思い出す。

今になって思う。家族と離れ離れになるのは誰だって哀しいということ。
きっと、私にとってはいつまでも忘れられない言葉だと思う。

世に出ることは決してないであろう、曾祖母や周りの人たちの人生。
当時の当たり前な生き方は、私には美しくて逞しくて、とても敵わないように映る。
どうしてもそんな風にしか考えられない私は、消えていくよりも残したいと心から思ったのだ。

そして、無口で若く死んでいった曽祖父。
私の文章を書く趣味は、曽祖父の悪戯なプレゼントだったりして。

そんな、ちょっと素敵なことを考えている。
2007.08.29 Wednesday ... comments(0) / trackbacks(0)
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